2016年11月1日火曜日

岩櫃城忍びの乱に参戦して参りました!

昨日の晩に帰宅して、今日は一日ぺちゃんこになっておりました。

写真をアップして、飯を食って寝て、のくりかえし。夢で戦国の戦の情景を見てうなされました。リアルでした…

当時は人を殺せば、首を取れば褒章が出たのです。...
そりゃあ良い気持ちなんてありませんが、守るべきもののために、一所懸命やり続けたんです。
それが武人のステイタスだったし、そうでもしなければ自分たちのみが危ないのですから、これは大いに工夫をしてやったものです。
そのころSNSなんかがあったら、きっと獲った首やら殺した敵将の写真をあげる人も多かったことでしょう。

だからこそ無常感もこの上なく、双方の菩提を弔って、戦の後出家をし、心からの祈りを捧げて無名のうちに死んでいった、ということもたくさん、たくさんあったかもしれません。
武具や武芸の技なんかも、時代が変われば思い出したくもない、失傳するならば、それもまた、いやむしろ良いと思われたでしょう。今ではそんな気持ちもよくわかる気がします。

今回は私たちの先祖がそうやった生き抜いてきた地、戦国時代が最も最後まで続いたと言われる、吾妻の地の中心地、岩櫃城にて3度目のイベント、忍びの乱にお邪魔をし、先祖たちが磨き上げたであろう甲陽忍伝の技の基本を、当地のちびっ子と一緒に楽しんでまいりました。


そもそも忍者、という言葉すら存在しなかった天正のころ、伊賀甲賀で発生し、甲州でまとまったた山岳兵法を最も発展させ、正式な軍法として軍団を編成したのが真田氏だったと思われます。
忍者にして忍者に非ず、特殊作戦のプロ集団として彼ら吾妻衆は過酷な戦国の世を渡り歩いて行きます。

そんな先祖たちを育んだ吾妻、岩櫃の地において、大人も子供も楽しく交流・・・!当然敵味方となって相撃ちあった者たちのしそんであろう我々が・・・まさに恩讐を超えて、なのです。それもすんなりと。さも、当たり前のように!!

・・・まったく素晴らしき現代日本の情景ではありませんか!岩櫃が笑い声で一杯の平和の砦となったこの日、幾多の御霊たちもどれだけ慰められたことか・・・!!

先ほど夢から覚め、心の底よりそのように思うことができました。このイベントは、本当にやってよかったのだ、と。何よりの先祖たちへの餞なのだと確信した次第です。

この価値を噛み締めて、かたちは変われども、岩櫃でのイベント、これからも続けていって頂けたら私たちも嬉しいです。


内容のレポートはこちら。

去る10月29,30日、群馬県吾妻郡東吾妻町に位置する真田忍軍揺籃の地、岩櫃にて行われた『第3回岩櫃城忍びの乱』において、shinobiーzm代表の伊与久松凬が講演会『真田一族と甲陽流忍術〜真田十勇士の原像を訪ねて』および、吾妻流ちびっこ忍者道場をやらせていただきました。
また併せて、甲陽忍傳吾妻流の演武、忍具の展示な...ども行いました。



今回は天気も最高の秋晴れに恵まれ、第3回でスタッフの皆さんもこなれてきたということもあり、地方創成のイベントとしては素晴らしい盛り上がりを見せたのではないでしょうか。
おかげさまで講演会も体験道場も盛況のうちに終了することが出来、沢山の笑顔と出会えた喜びと、ほんの少しだけ先祖たちへの御恩返しができたのでは?という安ど感を覚えることができました。
リーダーの斉藤さんをはじめあざみの会さま、スタッフの皆様には大変お世話になりました。心よりの御礼を申し上げます。


さて、今回は真田忍者研究の徒にとっては特に素晴らしいことがありました。

吾妻や東信に調査に行くときには、常に『このあたりに忍びの伝承はありませんか?』と尋ねるのが常となっております。
今回も宿泊していた旅館の女将さんが、知り合いの方にすぐに電話をして下さり、善行寺平から真田様とともに岩櫃入りした地侍衆の一系の子孫の方とお話をさせて頂きました。
吾妻入りした年代が、私の先祖のころと近かったので、これは絶対に同じ隊伍にて出浦様の下軍働きをしていたということが解り、話に花が咲きました。
残念ながら直接的な忍び関係のお話はありませんでしたが、当時吾妻に蟠踞していた地侍衆は多かれ少なかれ山岳戦に特化した忍軍の態を成しておりましたので、広義の忍文化の申し子たちと言えるでしょう。

そして今回も私の講演会に、割田下総守重勝殿の末孫、割田喜一郎さんが聞きに来てくださいました。
割田さんは幼少のころ忍術を継承されていた御爺様から厳しく修業を付けられたという貴重な体験を持たれる方です。
吾妻に行くと必ず顔を見に出てきて下さり、貴重なリアルな忍びのお話を聞かせてくださいます。
今回も再開を祝してがっちりと握手。
星野様が持ってきて下さった天正?のころの鉄砲を構える割田さん。お土産まで頂き、まことに感謝兆畳_(_^_)_

また、その前日には当時入植された国友鍛冶の末裔、国友さんも遊びに来てくださり、鉄砲談義に花が咲きました。


さらにさらに!古城合戦の時にたった二人で城を落とした!とされる吾妻衆の最精鋭とも言える使い手、一場茂右衛門殿の末裔、一場様にも再会でき、今度伺ったときには一場氏の系図を見せてくださるというお申し出を頂きました!系図にはなんと真田昌幸様から感状を頂いた云々という記載もあるとのこと、この一場殿と私の先祖伊与久采女はやはり同じ時期に何度もともに合戦に従事しており、吾妻衆の中でも同期の桜とも言える?お家です(笑)一場さんも熱い心を感じる方で、お会いできて本当に嬉しかったです。


祢津潜龍斎殿の同族で、今も潜龍院跡の傍らにおられる町会議員の根津先生からは、今回も遅くまでお残り下さり、大変貴重なご教示を頂きました。


皆様から頂いたご縁とお心を、大切につなげて、ここ岩櫃で編成され真田の忍軍が、独特の文化的価値を持ったものだったという事を証明していきたいと、心を新たにいたしました。