2015年5月28日木曜日

牧場通りでタイチー★

ご縁あって、小淵沢の牧場どおりにあるソフトクリームがおいしいお店「郭公」さんのチャリティーバザーで表演をさせていただきました。

楊氏太極拳の老様子2段までと、十三剣、行刀をやってみました。
天気も良く、たくさんの方に集まっていただき、伸び伸びと演武ができました。

自分にしては、ちょっと派手だったかな??とおもうような表演でしたが、終わった後、妻に「中国の六十歳くらいの人の動きみたい立った」と評されました。
どう理解したらいいんだろう・・・?
まあ、皆さまにはおおむね好評でしたのでよかったですけどね(∩´∀`)∩

ここ八ヶ岳南麓は、なんといっても人びとの粒が大きい。楽しくて興味深い方々に囲まれ、おいしい石窯ピザやカレーを食べ、高原の日に焼かれた素晴らしき午後なのでした。

ちなみに写真は何回目かの単鞭に入るところ・・・だと思う。最近はこうやって、前をむき乍ら背中からはいる人は、大陸でも少なくなりました。なんでやろ・・・('Д')

2015年5月23日土曜日

保守?なにそれ旨いの??

先ほど師範会の方とお話をしていたのですが、曰く「先生は出し惜しみされませんよね、不安にならないんですか?」とのこと。

確かに。彼らは私との付き合いが長いから、私が自分の師匠たちにどれだけ時間やお金や情熱を注いできたか、ある程度は見て知っているわけで、なるほどそういった心配❓が出てくるというのは有り難いことだとは思います。が・・・

私ごときがお教えしているような内容で、出し惜しみをしてしまったら、世の中ピアノのバイエルとか、フルートのユーブンゲンとかを秘伝と言わなくてはならなくなっちゃうでしょ、とも思うんです・・・

たとえばフルート、同じ音を均質に、長く出し続けるロングトーンが基本功。
はじめの一歩とは言いながら、これは実は結構ちゃんとやるとできないものですよ。セミプロでも怪しい人もいるくらい、心地よい表現の底には裏打ちされる確固とした身体性というものがあるんですね。

巨大なうねりを秘めた鏡のような水面の迫力と言うものは、ただの水溜りからは決して感じ得ないでしょう。そこには融通無碍な流動と、それを支える厳しい原則性、規矩が存在しているのを見て取れます。

 何気ない、ふとした仕草の中に、深い修練や執念、気持ちが見えてしまう事があります。
更に深く入ってゆきますと、規矩、法則の無色世界が凄い力で轟々と連動しているのだというのです。その世界に於いては、深く潜ることは高く飛翔することと同じなのだ、と言います。
そんな巨大な底知れないものになりたいのです。

だから躰術をやっています。
自分を分けて、心と体と言いますけど、飽くまでもそれは2元論ではないと言う事を銘記しておくべきでしょう。仮に、身体的な変容へのアプローチ、とでも申しましょうか。身体は感覚器官であり、受容器官でもあり、表現機関でもあります。

これを駆使して、ある状態になってゆくために躰術をやるというのが、今の私の大きなモチベーションになりつつあります。

 武術というのは、その検証方法としては優れたものだと思います。真剣にそこに遊ぶうちに、見えてくるのだと思います。

そんな世界から見てみれば、自分なんてゴミ虫のようなものです☆

 保守・・・?活き活きと水も埃も弾いてしまう個性を確立したいのに、今の自分に幾何の価値があるというのでしょう??

いや、ゴミ虫にだってものすごい数のバリエーションがあって、深い世界があるんですから、これも底知れない世界につながっている。ゴミムシに悪いことを言いましたね??すいません(´・ω・`)
http://column.odokon.org/2008/0409_092000.php


・・・結論としては、自分を大事にすると言う事は、ある面自分を糞袋のようなものだと思いきることと同義なのだということです。そうでなければ、より大きなものに繋がっては行けない。

だから、糞袋の僕がやっていることに興味と共感を以てお付き合いくださる酔狂な粋人には、袖触れ合うも多生の縁、友としてのエチケットをお守りいただけるのであれば、知りうる限りのことはお伝えしようと思っております。

但し・・・同道だけを自分の楽しみとするのでなく、上達を・・・私と同じところ、私の師と同じところを目指す、そういう取り組みを目指される方には、あえて秘するべきところは秘して、黙するべきところを残して、厳しい心でお付き合いしたいと思います。
そういう人は、プライドを持って私の下に来たと認識するからです。それがその方に対する誠意だと思っています。

今日も稽古に行ってきます~(@^^)/~~~良い一日を!!

2015年5月20日水曜日

日課

僕は富士見にいるときの日課として出来るだけ手裏剣を投げるようにしている。

外の畳の的の場合は鉄製の稽古用のもの、道場の中では箸やバーべキュウの串を投げるのだけれども、投げ続けると肩が痛くなるまでやってしまうので、目安として、手持ちの玉?がすべて的に刺さるまでやるようにしている。

 鉄は15本、箸は30本ほど。
最近でこそそこそこの時間で刺さり、時に御代わり!?までやるときもあるのだが、最初はとにかく時間がかかった。
最後の3本位が刺さらないで、泣く思いで夜中の2時ごろまで投げ続けて、次の日肩が上がらなくなったり、最後の一本がすでに刺さっている数本をまとめて弾いてしまい、5本くらいが手元に戻ってきたときは、誰もいない稽古場で地団駄を踏んでしまう(;´∀`)

投げ続けると、よく判ってくるのがフォームと踏み込みの関係性。
所謂六合が整わなくては、刺さる軌跡で飛んで行っても弾かれてしまいます。
これは柔術も一緒。一人型では得られない感覚が、流動的なものに触れる稽古では厳然とあるのが嫌というほどわかります。

こんなことを書くと、さぞや手裏剣の達人のように思われてしまうかもしれませんが、そんなことは全然なくて、まだまだ下手の横好き・・・
「物好きな奴もいるもんだ・・・」と、八ヶ岳に眺められつつ、先祖の足跡を悪戦苦闘しながら探っているわけです。
祖母のように打てる日はまだまだ遠いなあ・・・と思う今日この頃です。

2015年5月18日月曜日

無極生太極

生徒さんたちも変わってきている…
師父の無極式が、20年を経て第3代に浸透してきた。
今は少しづつ、一人一人の生活に、大きなギフトとなりますように(^◇^)


2015年5月14日木曜日

綺羅星のごとき師匠たちを仰ぐ日々なのだ☆

私には数々の恩師といえる方がいる。

祖母をはじめ、父や祖父が武への道を開いてくれた。

 老蟷螂門 根本一巳老師が、近くにお住いでなかったら、中国武術の縁はなかっただろう。僕の青春は、実に先生やこの仲間たちを中心に送られた。

 開極拳 謝紹君老師は古えの武芸の水準を顕して下さり、葉式の郭大鯨老師や欄手門尹金陵老師が、内功の凄さを身を以て教えてくれた。...
そして和道流長谷部師範が実践に生きるものの心構えと技を背中でお示し下さり、車派形意門 趙玉祥老師が内家拳への進門を促してくださった。

この時期前後して出会った武友たちの中でも、いまだに交友を持ってくれる人も多い。影響という意味では、彼らもまたわが師といえるだろう。苦楽を共に、切磋した友人たち・・・!

八卦掌ではいまや長老の一人となってしまった、姜氏門2代傳人 鄒淑嫺老師を一輩子の師父として拝する為、上海に渡り、姜氏の門人となった。だから私の家族は日本と上海にいると思っている。

中国では書ききれないほどの先生方に良くしていただいた。
特に龍口六合蟷螂門の林基友老師。趙道錦老師・・・峨眉の楊兆原老師・・・六合八法の張小元師叔、形意門の橙福信師叔には日本から来た若造に惜しむことなく秘術を伝授くださった。先生方の度量と人格の素晴らしさ、侠気に深い畏敬の念を感じる。

 五行通背門 周玉金老師も伝統の真っただ中を行く人。八卦、太極拳に影響を受けた。

 日本でも有名無名、いろいろな方に貴重な技の数々をお教えいただいた。
瀧元正樹師範は、門外の私に親しく家伝の柔術をご教授くださった。その懇切丁寧で理論的なこと!そして謙虚で物静かな佇まい・・・
壺月遠州流 中村如栴宗匠の体術は、茶道や礼法を越え、よろずの芸道に通ずる普遍的なものを感じさせてくれた。実は先代宗家が古伝の四股を中心とする身体操法の保持者だったということ。興味深く目下研鑽している。

明暗寺の虚無僧、倉岡邱人師や那智の息吹行者の某師、九州の神道家中富先生、荒行堂傳師の戸田日晨上人には無形の「結び」の教えを、可否道楠木師匠には任侠流「ぶった切る」ということをお教えいただいた(笑)

伝統空手界の長老、村上勝美師範こそは千日鍛万日錬行の人。武術を酷愛する気迫と、高潔な人格に打たれ、出版のお手伝いまでさせていただく光栄を得、今もそのご教誨に浴している。

そして今、在地諏訪の神官家に伝わった柔術の不世出の達人、М師の下で、今までの蓄積をすべてぶつけて取り組ませていただいている。
全力でぶつかって、それに全身全霊で応えてくれる、私の知る限り稀有な武人。目下くしびなる縁の糸を、大事に大事に紡ぐ日々。

・・・よく考えると、こんなにたくさんの名人に教えを受けて、いまだその足下にも及ばぬわが身の拙きことと云ったら・・・ナケテクル(/ω\)

しかし、そんな凡夫に真心で接し続けてくださった、先達の魂の美しさといったら・・・!!これだけでも、生まれてきて、そしてこの道を歩んでよかったなあ、と思えるのです。

2015年5月9日土曜日

歓迎☆と庵ツアー御一行様

先日お話した楠木師匠のお店「と庵」ツアー、諏訪錬誠館道場見学の巻。
先ほど了承を得ましたので写真をアップしますね~(^◇^)

師匠は柔術の師と同年代の78歳。
もとは東京オリンピック中距離走の補欠で伴走者まで務めた方。
この方の人生こそ波乱万丈・・・優に一冊の本になっちゃうような方です。
もちろん武勇伝もスケールが・・・でも大体書けないことですね。
若き日は浅草の高橋一家から、丸ビルに事務所を構えるさる大物に見出され大層ご活躍された、とだけ書けば、ピンとくる方はいるかもしれませんね。

















と庵にて珈琲を点てる師匠。ダンディーです。


知る人ぞ知る名店、可否道のオーナーさんだったのですが、今は市川で気の合うお客さん相手に絶品の珈琲を出しつつ三匹の猫たちと暮らしておられます。












猫カフェ。猫のオブジェ。猫。

うちの生徒の川田君も、こちらに弟子入りして今では北杜市で珈琲専門店を開くことが出来ました。http://www.yamanashi-joyful.org/interview/15/(山梨移住者100人に選ばれました!)

こちらのお客さんは、マスターに似て物凄く個性溢れる方ばかり。各方面でご活躍の方も多く、わたしも良き縁をたくさんいただいております。感謝('ω')ノ





手裏剣大会も行いました。一位は右の方。豪華賞品(当館特製手ぬぐい:笑)差し上げました。

2015年5月8日金曜日

別に天井裏に潜む忍者を突いた、というわけではなく・・・


先月の中旬ごろ、関東でお世話になっている方たちが、20名もの大勢さんでわが道場へ遊びに来てくださいました♪・・・というわけで急ごしらえのミニ演武会を行いました。

また詳しく書きたいと思いますが、知る人ぞ知る、某猫カフェを営むその方は、戦後間もない東京は浅草で、さる有名な一家の住み込みの若い衆だったそうで、出入りは日常茶飯事、長ドスで何度もやり合った経験があるという、今どき稀有なお方・・・

以前白刃に身を晒すかもしれなかったときに実践的なアドバイスを頂いた関係から、僕が勝手に師匠と敬称しているタダモノでない達人じいちゃんなのです。

だからつい力が入り過ぎちゃった、というのもあるのでしょうが、組太刀で大上段に剣を突き上げ浅い袈裟に落とそうとした折、天井の蛍光灯の台を剣尖で突いてしまい、もうちょっとでガラスの雨が・・・というところでした。

 蛍光灯は割れずに落っこちてきたので、結果オーライではあったのですが、せっかく遠くからお越しくださった皆様の前で、一番やってはいけない失態をかましてしまったことに、日ごろラテン系な私も珍しく一寸ブルーになちゃいましたよ~(;´∀`)

柔術の師も、私の道場は天井が低く、諏訪古流の太刀筋が思うように振れないので、天井を上げたら伺いますよ、と仰ってくださっているのも、ずーっと前から心に引っかかってるし…

というわけで、ゴールデンの後半は道場の天井をはがして、長物スペースをもうけちゃおう!キャンペーンを実施いたしました。
汗まみれ、ほこりまみれで吊り天井と格闘すること2日…先ほどやっと完成しました。もう槍でも刀でもなんでもふれるぜ~(/・ω・)/

これで実力も天井知らずに伸びてくれたらいいなぁ・・・などとムシの良いことを・・・(*´ω`*)

武術は春夏冬東西(あきないもの)に御座候

昨日のお稽古で、足の裏の感覚が変わった・・・柔が掛けやすく、相手の技が掛りにくくなった・・・いつまでも学ぶことがあるって言うのは良いものだ。

しかし、78歳の老人と、延々2時間も乱捕をしつつ、果てにはぎゅうぎゅうやられてしまうのだから、自分のふがいなさと言うか、師の異常な鍛錬に毒を抜かれっぱなしのこの頃。技や心法が身についているかいないかで、子供扱いにもされてしまうものだと言う現実。立体的な発想と言うものが自分には足りなかったと痛感。

40になるまでは、ひたすら姜容樵先師の内功を追って来た。数年前、所謂「印許」を頂き、躰術の概要を得た。師父曰く「もう技術を違えることはなかろう」と。また「明ケイは繋がった」とも。今後はここを起点に套路の中で刃を研ぎ、対人でその規矩を知るのみとなった。(実はここからが本筋なのではあるが。)
そこを一期として色々と研究、特に浅山一伝流と古伝の首里手に関してはその術理に魅了され、一刀流系刀術、諏訪傳某古流柔術の師につき今に至る。


 思えば身体を基準に拘り続けてここまで来たなあ。これ以降は気と心の規矩についても視野が広がっていく予感がする。若い頃には思いもよらなかった変遷。しかし、初心からぶれているかと言えば、大きく見ればそのまんまストレートなところもあって、いや、むしろシンプルになっただけ集約していると言うか・・・内功武術、古伝首里手と古流柔術、礼法躰術までもすべてが自分の身の中で寄り添い、一炉に修錬されてきている感覚がある。いつか将来、伝統を一定以上練り上げたこの心身で、ある独自の躰術の境地を世に問う日もあるかもしれない。だって、こんな美味しいものを独り占めするのは何かイケナイきがしてしまうんだよね~(笑)


元気に稽古を続けて行けること自体、本当に幸せなのに、古き良き無形の宝を伝える先達たちに貴重な教えを頂けるこの忝さ、感謝、感謝である。
そして何より、自分はまだまだ鼻たれ小僧、このことが実感としてある。限りなき可能性を秘めた、人間賛歌は勇気の賛歌ッ!・・・楽しいのう!(^^)!



写真は日月流開祖片桐音之輔宗矩。我が祖父に伝わっていた総合武術。
師は武医茶禅に通暁し、この一流を開いた。師の如き通人となりたし。

把という概念 

あまり知られていない事だが姜容樵師爺は中国武術を「国術」、そのなかでも内家拳を「柔術」と呼んでいた時期がある。

 日本の武術が柔道に集約されてきたリアルタイムを生きた人だったので、自国の武術のアイデンティティーを確立させるのに、相当なに苦心したのだと思う。しかし、柔術とは・・・その言葉は一般化することはなかったのだが、あの文武に秀でた名家中の名家が、拳術の上乗をこう呼んでいたと言うこと自体、なんとも面白いではないか!

僕もその気持ちが解ることがある。
日本と中国の武術・躰術文化を、自分の身体の中で摺り合せるときに、なんとも形容のしがたい言葉や分化以前の概念に触れてしまうことがある。
そこで古典に触れて行く、遡って先人の思考や技に込めた思いにお伺いを立てるような気持で型を打ち、黙念師容を重ねてゆくのだが、そこで霧が晴れた様に腑に落ちるコトバと出会う時がある。
トランスファクターを得た、と思う瞬間である。往々にしてそれがあった後は技術的にも大きな変化を体験する事が多い。


最近では「把」と言う言葉がちょうどそれで、形意拳の打ち方と諏訪に伝わる一刀流系の身体使いが似ているとモヤモヤと感じていた矢先、師匠に丹田の使い方を問うた時から、その探求が始まった。
そこで開示された身体使いは心意門の伸縮と開合と類似する体動で、以前村上先生に首里手のチンクチについて伺って得た見解とも矛盾していなかった。これには正直驚いたのと同時に、丹田の力を外部に及ぼすときの基本的な術理には、地域、民族的な差異も認められる半面、じつは共通性の方が多いのではないかという私の持論を証明してくれるようにも思えた。

内家拳をやって、古流の空手を経験し、柔術、剣術・・・一見節操のない躰術のカタログのように思われても仕方がないが、どうしても共通するある力の表現を感じてしまう。

話は戻るが、掴むということは、自分を限定させてしまう事でもあるのだが、「把」はそうじゃない。把は力が追ってくる・・・勁というならばこれは勁だし、客観的に大別すれば「取り手」の必要条件に挙げられる要素だろう。先ず以てそれを作りだす動き自体が相似性を帯びている。

今日はいつにもまして投げられた。反撃すれども続いて行かない。
 簡単に逆転されてしまうのは、自分にはその「把」が無いからなのだ。(もちろんそれだけではないが) 落ち着いて、冷静に、力まないで攻防の機微を見て行かなくてはならない。
自分の至らないところ、解っていても何が表現できないのか、そういったところが段々浮き彫りにされてきている。目を背けずに、技に対しては真直ぐでいよう。

それには力一杯掛っていって、それでも把の優秀性を、身体で教え込んでくれる師匠たちの存在は欠かせなかった。自分もそんな風に人を導いていけたら…説得力のある存在になって行けたら、と心の底から思う。

師は「貴方の言葉で語りなさい」「それが伝統を継承すると言うことなのだ」とも。

 伝統とは、再創造すること、フタを開けてみた時に先人と同様の所まで自分を深めてゆくことこそが伝承だ、と至言した鄒淑嫻師父と通ずる、今を生き、刻々刷新し続ける「勁の伝承」の思想。

自分は「弱い人種」で本当に良かった。発見し伸びてゆく楽しさを味わえるから。そしてこの業があったことに感謝する。得難き出会いに囲まれているから。最近はこんなことばかり考えています(@_@;)

お盆は八ヶ岳アウトレットで僕と推手(;'∀')b・・・諸事情で、中止となっちゃいました( ;∀;)



今年のお盆期間も、八ヶ岳リゾートアウトレットで太極拳体験コーナーを受け持つことになりました。 近くになったらまたお知らせしますので、興味のある方は是非遊びにいらしてください(*'▽')

・・・とおもいきや、向こう様の事情で中止!だそうです。
楽しみになれていた皆様、本当にすいません_(._.)_

☟去年のお知らせと写真です('ω')ノ

昨日,明後日と、小淵沢アウトレットモールの「アーリーモーニングフェア」にて、「ぶらぶら健康体操と入門太極拳」を行っています!!
朝10時から、45分の短い時間ですが、しっかり身体を動かして、快適な一日のスタートを切るお手伝いをさせて頂きたいと思います。飛び入り参加大歓迎!ちなみに無料です。
八ヶ岳方面にお越しの方は、ぜひお立ち寄りくださいネ☆



一昨日は雨で流れたけど 今日はなんとかもってくれた山のお天気☆
大勢のお客様といっしょに「中国の朝の公園」を再現しいてまいりました!
気持ちよかったっす~!(^^)!
イベントのときのみ、中華なコスプレ?で登場しますが、普段だったら↓のような珍獣系なイデタチで稽古会に臨むことが多いです。門下生の皆さん、ごめんちゃい(●^o^●)

☝このシャツ、即買いでした(*´ω`*)

生活者の体術ー陽中之陰としてのありよう

僕は生活者の哲学とか、実学という言葉が好きです。

飯を食い、鼻をほじりて屁をひれば、あとは糞して寝るばかりなり

・・・きったないですが、これが基本で、織田信長でもイエスキリストでもAKBでも、人間である限り基本からは外れて生きることはできない、まあ言うまでもない話ですが...
武術も、なんで体術と言いたいかというと、人様を殴るける、刀で切る、棒で打ちすえる稽古・・・というのは普通のことではない、生きる上で、とみに現在の社会を生きる上では基本的事項ではない、と強く感じているからです。


 生活者のための体術、と大上段に構えることもないですが、あえて自分の伝統の技法を、そう明記してみたい欲求に駆られるのです。


殴られたら身も心も痛いものです。恨みだってするでしょう。
蹴られたら、蹴ったら、武器で打ったら、打たれたら、切ったら、切られたら・・・刃物で切られたり、棒でしばかれたり、フルぼっこにされたりしたことが少~しだけありましたが、これはなんというか体以上に心がシーンとなってしまう。まあ、僕の場合ですが。
武術者同士の尋常な立ち合い、というのなら双方同意の上のことなので良いのです。が、これも非日常、非常態であることを強く意識できないと危ないし、常態に響いてくるものがない。分離してしまうのです。

しかし男の子を見ていると、こういった世界が本当に大好きで、子供たちなんか手に手に棒を持って戦ごっこをおっぱじめるので、これはもう本能に近いものなのでしょう。男の子は安定よりもホビーを求めてしまう。常態よりも非常を、安全よりも危険を・・・だからこそ「ごっこ」と「ごっこではない」を理解して、稽古即実践力という勘違いをしないように弁えてゆくよう指導しなくてはならないでしょうね。

専門家しか語ることのできない哲学というものや、精緻で芸術的な化学・物理学・高等数学などは、ふんふん、なるほどと眺めるだけの最低限の知識量だけでも、もう一般人からは遥か遠いところにあるわけで、こういうものはなんというか美術や骨董に近い価値観や存在感を帯びているのではないでしょうか。
もちろん武術にもそういったことは大いに言えるわけで、非専門家のまなざしを常に持っておくところがないと、専門家は自分の技術を活用してゆく、敷衍させてゆく出口を持たないことになってしまう。そうなると玄人同士のサロンのようになってしまって、結局ああいった技術は「飯を食い・・・寝る」からすると「なくたって差支えない」もの、時に無用の長物になり兼ねない。もちろんこういった存在もものすごく大事です。でも、忘れがちなんですよね、ロマンチストが多いですからね。

やはり一日蔬菜でも良いんで2食は食いたい。体も頭も健全にトリートメントしたい。整った状態で、出来ることをやって生きていきたい。
やれることをしていけば、夢も形になってくるだろうし、整っていれば、何とはなしに楽しい感じが出てくるもの、だと思っています。
こう書いてみれば、日常なんて別段特別でも難しいことでもない。でも結構あっちゃこっちゃ纏まりのない、とりとめのないのが現状です。

だから、整った日常に向かって身体と心を戻していってやる。その手伝いができるのは、やはりこれは「常態・非常態」の双方の味わいを知る専門家の役目なのだと思います。
伝統武術に伝わる「非常の智」は、「日常」を色濃く味わうための「陽中之陰」の自覚こそが大切なのだと思っています。

2015年5月7日木曜日

五体満足なのと、身体が利くということは全く違います。

● 私の稽古会には、何故か身体や心の不自由と共生しているかたが訪ねられることが少なくない。武術~!と四角張った会のありようではないので、参加してみよう、続けてみようと思われるのだろうか。いろいろな方が、この体術に何らかの縁を感じて、続けてくれるというのは嬉しいことだ。

今日の午前中は、小脳変性症という大変な病気と闘うМ君と、そのお母さん、今日はお休みだったが高次脳機能障害のJ君の三人だけのリハビリクラス。
彼らはただ立っているというだけで、ものすごい緊張と、ぎりぎりのパフォーマンスを強いられる。
原地太極十三勢功をやってもらっているが、こっちが教えられることが多い。
右に向いて足を進める・・・誰でも簡単に、意識さえしないでもできるようなことが、彼らには二重三重の複雑なシステムを経なくてはなしえないことになってしまっている。...
たとえば、上の動作を完了させるには、
背中を逆側に向ける。一緒には骨盤は振らない。背中が一定の伸びを見せたところで、後ろの股関節を反転させ開く。逆側の首筋を乗せてゆくように、内転筋に体重を通す。軽くなった足を刷らせるように半歩置く・・・こんなに複雑な動きを確認しつつ行わなくてはならない。
それだけに、彼らの行為における意識には強い集中力と繊細な感覚を感じる。

私たちの流派は、師父自体が20まで生きられないといわれた重病人だっただけに、養生ということについての蓄積は深いものがあると思っている。
今までも様ような不調、機能障害を抱えた人が入門してきたが、それを直すというのではなく、伝統のものを真剣に稽古してゆく中で知らないうちに心身ともに健全になってくるというケースが多かった。
心が身に寄り添っての人。泣いても笑っても、この身体を置いて自分はないのだから、自分自身も上手にお付き合いしていきたいし、縁のある人とその方法を模索しながら稽古してゆきたいとも思っている。

● 後日、彼のもうひとつのライフワークである絵画の展覧会が甲府であると聞いたので、中央線に乗ってちょっとした一人旅をしてみた。(ここからFB日記↓)

甲府は一番近い都会だけど、一人でぶらり旅は初めてなので、ちょっとドキドキでした( *´艸`)
むか~しむかし、父方の新田一族で旅行したときは、昼間っから「うおー!時代が時代ならば信玄でのうて我ら新田一門が~!」とか「人は石垣人は城・・・!ダイゴ、ええこと言ったなあ、親方様は、のう?」とか、大声を張り上げながら甲府の街を行く集団の中で、目立たないように息をひそめていたものでしたが・・・
なんとまあ、小奇麗になって…まったく駅前は近代都市ですよ。ミュージアムシティでござらっしゃりますですよ、これは!おら、もんげーびっくりしたずらよ!!
んで、そのミュージアムシティKOUFUのライブラリーのアートスペースexclamation ×2(しつこい)でやっている「つなぐ、たゆたう、アート展」へいって、またまたもんげーおどろいたずらっ!


М君は、この前も少し紹介した小脳変性症と向き合っているおにいちゃん。以前かれのホームページを紹介してもらい、彼が絵画を自分のライフワークにしていることを知ったのだけど、正直hpを見せてもらったときは、絵筆を持つのも大変な、彼の絵の良さがイマイチわからなかった。(hpの写真も小さすぎて画質も悪かった)
恥ずかしながら私も下手ながら芸術専門で大学を4年プラス数年やってきたわけで、造形芸術に関しては結構な数を見ていたと自負していまして、不遜にもどこか上から目線で見ていたのかもしれないわけです。

しかし、やはり絵画は(なんでもそうだけど)出会いなんですな。
一言でいうと、彼の大きなカンバスに描かれた油彩を見て、思わず相当感動しちゃったんですな!いやいや、本当に素晴らしかった。
構成、色味、配色、ムーブ、マッス、陰影、テーマと表現の協調、訴えかける親和力・・・相当の画家でもなかなかできない、ずっと見ていて見飽きない「ファインアート」をちゃんと出現させちゃってるんです。グーッと引き込まれるものがあるんですね。以前佐倉で見たロスコの画にも匹敵するような・・・
蛇足ながら、僕の目線で言っちゃうと、水彩では彼の持っているものに画材が負けている。油彩で、アクリルで、彼の持っているものは一層引き出されてくるような・・・、いやいや、ここは謙虚に行きたいところです。でも、興奮が(笑)

ほかにも障害と向かい合う子供から大人までの広範囲の作品を展示していますが・・・なんだかすごいものを見ちゃった感があって、たとえばある知的障害を持つおじさんの描く人物は、どう見ても遮光器土偶なんです。
そのひとはペンで親しい人の印象を描くわけですが、身体には不思議な突起があり、実際にはないような模様があり、性器はしっかりと描かれています。フォルムは縄文の土偶以外の何物でもないような、手足の短い、頭の大きい不思議な造詣・・・もちろんその人は土偶のことなんか念頭にはありません。そもそもの抽象、ということを考えさせられるひと時。



人間の表現したいというプリミティブな意志の純粋さを、かれらのなりふり構わない作品から受け取ってきました。

また、そこの受付のお姉さんが、以前の生徒の彼女さんで、私のことを知っており、今度彼と一緒に道場に来ることになったり、行ってみたかった武徳殿に偶然辿り着いたりと、なんだかおぜん立てが整ったような偶然に吃驚!!電車の時間が押してしまって、お昼はミスドをふたっつばっかでしたけど(´・ω・`)

ちょっとした半日のちい散歩でしたが、心はなんか大変な冒険をしてきたみたいで、ミュージアムシティKOUFU、おそるべし!と思いました。
 

ある日の稽古日誌



某月某日

今日のお稽古は背中のツボの方を開くことに専念・・・その動作のきついこと、夢幻のごとくなり!(?)
教えるためには延々とやらにゃあならず、全員に技を示さにゃならずんば虎児を得ず・・・なんで、タマシイ抜けるくらいちゅかれましたよう( ゚Д゚)~Θ 
明日も全身筋肉痛でっせ~!

「天王托搭勢」「順水出舟勢」「神亀攪水勢」「仙鶴展翅勢」・・・...
背中のやる気スイッチの存在は、知ってるヒトは当ったり前に知っている、知らないヒトは気にしない、それ☆ワカチコワカチコ~♪なお話。


 伝統武術って、実はこんなんばっかりでね・・・幾ら知っていても、威力が出ても、生涯使うことがないほうがシアワセ・・・的なものから、これ知ってればほかのスポーツにも応用可能で、おまけに身長も伸びて、成績&金運アップ!こわもてのリア獣からモテモテのリア充に変身~(*'ω'*)みたいなものまで(?)あったりするから(有るのか!?)・・・非常有意思なわけです。


でも、これが出来ていなかったら、柔術の師匠からは相手にされていなかったかもしれないので、僕個人的には実に超重要機密事項だったはずなのですが・・・どうやら時期が来たので生徒にすんなり教授しちゃいましたYO・・・


 まあ、それでも出来るまではまだまだかかるでしょうね。みんなガンバ!と言っておこう(*‘∀‘)b


それから、お茶のお稽古は、なんと盆茶手前の中段、自分で点てて呑む!ってところまで到達!!!もうこれ、嫌がられてもうち中のもんにごっくごく飲ませるしかないでしょ!>抹茶( ^^) _U~~惜しげもなく秘の内をお教え下さる中村宗匠に感謝っす☆

★月☆日

寡聞にして知りませんでしたが、諏訪の古伝柔術には推手みたいな稽古があったんですね。師匠は「乱捕り」と言っていましたけど・・・これ、八卦の盤手と言っても誰も疑わないぞ・・・っていうような内容ですよ。面白いもんです。巻き付くような入身は独特のものです。
さて、今日は3教室、やっと終了でした。新しい会員さんも2名入られて、長い人は十字開合、左右転化、出洞入洞の経路が繋がってきました。動作をすべてこの理合いでやりおおせることが出来れば、明勁の一つの完成と言っても良いような難易度の高いものです。楽しんで伸びてもらいたいものです。
その間、手裏剣を2時間ほど・・・けっこう精度は上がってきましたが、まだまだ素人の手遊び。...
でも嬉しいことも。右手の手の内を捻るんですが(椛捻)それからひねりをどこまで戻しながら打つか、というところで間違っていたことが判りまして、やっぱり微妙で細密なものなんだなと。
結局人差し指が上方へのブレを抑えるさやの役目を果たすぎりぎりの角度で(離れ)が行われることで、まっすぐ飛ぶのだということが確認できたのは僥倖でござんした。

明日は子供教室&空手初級教室の日!楽しみ~( *´艸`)
それにしても、言うこと書くこと思うこと、なんの色気も素っ気もないもんで・・・困ったもんですなあ・・・(;'∀')
 
◎月×日
 
ひょんなことから受け入れた小学生のYくん。カンフー映画が大好きで、うちはおじさんおばさん太極拳の会だから・・・といっても「絶対頑張るんでお願いします!」と頼み込まれて入門・・・はや2年が過ぎ、一年後輩のRくん、ちびっこのLちゃんという後輩もでき、今では一人前に旋風脚や旋子もこなす様になりました。
サッカー部では小兵ながら縦横無尽に閃轉してレギュラーになったとか。うれしい限りです。
この子たちの未来、平和で豊かな世界であってほしい・・・
...
写真は下八相に構えるRくん。ご両親は渋谷東急時代からの生徒さんです。もう一枚は二人の稽古風景。様になってきましたね☆がんばれ、がんばれ!

 

道人の横顔

壺月遠州流第4代宗家、中村如栴宗匠は私の礼法、茶道の師です。
私にお茶や礼法をお教え下さるのと同時に、私が拙き身ながら柔術や武術に伝わった躰術をお教えさせて頂いています。

 大流派の宗匠ではありませんが、そのお点前の水を切るかのような鋭さにほれ込んで、同年配と言う事も相まって、親しくさせて頂いております。
宗匠の飽くなき向上心と、理想の高さ、そして苦悩や迷いが見えてくる、赤裸々な告白だと思います。
...道に逍遥する粋人のもう一つの横貌です。
 
以下、FBより転載:【交歓稽古(武の部)】
柔術の身体の使い方が難しい。普段の点前での体術の応用なのだが、中々技がきまらない。身体の軸さえ作るのに難儀してしまい、ちょっとした挫折感に近いものを感じてしまう。普段やっていることがちょっと状況を変えるとできないというのは大変悔しく至らなさ、未熟さ修行不足を感じるが、それらが稽古のモチベーション...になっている。また同時に体術の奥深さも感じている。
当流の正しく伝え残す為に、点前の解析・研究をして点前の文字化をしているところだけれども、その研究のたすけになり、気付きもあるのでとても有難い。
あるべきように正しく身体をもっていくことで、力が発揮される。それが点前にも通じる。
 
・・・真剣に芸を極めようともがく道人の風貌がそこにはありました。稽古場で時にフラフラになりながら技と向かい合う、茶道の宗匠・・・凡人には中々真似の出来ることではありません。わたしはこの方に、礼法やお茶を学べるということを大変な喜びに感じています。
 
惜しげもなく、貴重な伝承を教授下さる中村宗匠!おかげで松凬もお茶を点てられるようになりました…( *´艸`)

順水出舟

まあ、たいしたことないのですが・・・基本功「順水出舟」の示範動作をやってみました。
相手とチークダンスを踊るようなところまで「合」し、発放します。激しい表現ではありませんが、うまく合えば根っこから持っていかれるので、軸と移動の感覚を得る良い練習になります。
誰でもできるような一つ一つの動作、例えば肩甲骨を閉じる、目を見張り、うなじを伸ばす、股関節を際立たせる、足をけりのばすなどなど・・・これをどういった順番で完了させ、連結させてゆくか・・・もう少し上位の錬功法になると、ほとんどピタゴラスイッチです。工学系の人なんか、ハマってしまう方もおられます。...

こんな感じで、私たちの稽古会は型の継承とその解析でほとんどの時間が費やされてしまいます。なんとも、マニアックな人たちが多いことか・・・でも、自分と同じことに興味がある人が複数いるというのは励みになるし、とても楽しいことですよね!



最後は今日の稽古会の途上で見かけた看板。ニンゲンとか珍獣の子どもでも診察してくれるのかなあ・・・(´・ω・`)
ちなみに以前「筋肉ごりら整骨院」とか「せこ接骨院」というのも確認しました。医療系、なぜこんなに自由・・・?( ;∀;)

先輩、温故知新って何かちょーエコって感じっすよね。

もう93歳になられた、お世話になっている恩人の方が愛用していた着物を頂きました。

大島の落ち着いた色の着物。他にもウールの上下など何点か。欲しくても手が届かないようなモノや、貰ったんじゃなければ決して袖も通さないような意外なモノたちに触れて、縁と言うものを感じています。不思議としっくりきて、全部が気に入ってしまうのは、拘ってないからなのか・・・なんででしょうねぇ??

最近は忝いことですが、人様から結構なものを頂くことが多く、服などはずいぶん久しく買っていません。まるで「おい、お前こういうのも着てみろ」って言われているかのよう。...

そういう経験をしてみて、いろいろな意味で、新しいものよりも、歴史あるものを「受け継ぐ」ということのほうが何倍も素晴らしいと感じるようになってきました。


むろん活用方法は自分に許された部分ですから、オリジナルな着こなしを研究して行こうと思います。春っぽいストール巻いたりして、武川あたりに花見にでも行きたいものです。



古きものを受け継いで、着こなしてゆく面白さ、これって武術にも通じますね。自分のえり好みだけではない、モノゴトとの出会いを通じた自分の再発見があるというのは深いことです。

ちなみに写真では良く見えませんが、下の帯は郭沫若さんから頂いたものだそうです。郭先生たちの集まっていた上海の内山書店付近は、僕の青春の一ページを送った場所。郭先生は解放前は市川に隠棲していました。こんなちょっとしたモノを通じて、遠い二つの点と点が、一人の人の中で繋がってゆく。面白いです。
でも手裏剣は投げちゃう(*‘∀‘)
 

春はウキウキ☆…だけじゃなくなっちまったなあ(*´ω`*)



ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし・・・鴨長明

人生畢竟一口気 奇正相生在呼吸裡 
好像潮水的不断 摸不到刹那之波濤・・・鄒剣鳴


...
春っていうのは何だかもの悲しい季節でもあるね(´・ω・`)
桜もすぐ散っちゃうし、過ぎ去ってゆく、変化してゆく、通り過ぎてゆく・・・
命が漲る、息づいて進んでゆくということは、停滞しないということでもある。
それがただただ楽しい、という気持ちで過ごせなくなったのはいつからだろう・・・



散らぬ桜のあるものぞ
風に舞い飛ぶ花吹雪
瓣は折敷きいちめんの
綾の褥となりにけり
散りて実りのもととなし
枝葉茂りて蔭をなす
錦織りたる装いも
ひとえ無骨の幹故に
花を花とし枝を枝とし
憎み愛づるは人の常
枝葉幹根に至るまで
一ついのちと見極めん  
                       松凬山居識

幸福って・・・

あなたの幸せが、私の幸せなのですよ・・・っていえる(あなた)が、ひとりでもいる人は、幸せなのだと思う。

2015年のゴールデンウィーク講習会(後半)

 後半は私が講師を務める内功体術の稽古会でした。
長年やっても漠然としてしまう学生が多いことから、ひとつの方便として二十四の内功を段階的に習得できるように、六段に分類しなおしました。
今回はそのうちの第一段、「混元次第」を学習していきました。


中村宗家に学んだ礼法の「水走」
太極拳の「太極之體」「ポン勁」
姜氏門の「順勢」
諏訪神傳和の「順心」
といったテクニカルタームの示す身体の在り方は近似というか、本質的には同質のものだということ、そしてその身体を以て技を施すと「化」とか「(所謂)合気」「同調」といった現象が起こるのだということを示せたかな、と思っています。





一見複雑な体術ですが、一から段階を経て納得ずくで身に着けてゆけば、きっと掛け算的に習得できるのではないかな~と考えています。

壺月遠州流の中村宗家も一練習生になりきって稽古に汗を流されていました。忝きことです。ありがとうございました(^_-)-☆
 
最近は老学生(長い付き合いの生徒さん)が子供連れで来てくれるようになりました。おじさんはうれしい!!
 

2015年のゴールデンウィーク講習会(前半)

2015年のゴールデンウィーク,太和躰術協会主催の身体文化を学ぶセミナーが行われました。
以下はそのレポートです。

本日の太和体術協会GWセミナー、前半は壺月遠州流・中村宗家をお招きしての
「もののふの礼法と体術」講座でした。
写真を見るとお分かりになるように、宗家の力みのない、それでいて力強く隙のない佇まいの中に、独特の身体の中心を強く意識した躰使いが存在していることがうかがわれます。
古伝の礼法というのは、実はまとまって伝承されていることは、滅多にないことで、このように順序立てて、規矩をはっきりと教授していただけるというのは稀有なことだと感じています。
このありがたき縁に感謝☆
中村宗家、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます(*'▽')/

 
本日の稽古会にあたって、中村宗家を有志にご紹介させていただきました!
稽古生の中には武術経験者だけでなく、トレーナーや主婦など多種多彩な方がみられました。皆さん真摯に躰と向かい合っている方たちばかりです。実によい稽古会でした。



                                                稽古には茶道の作法だけでなく、体術全般に通じる躰使いのセオリーが教授されました。刀を使ったり、襖越しの敵を意識した戸の開け閉めなど、納得のいく充実の2時間でした。