2016年11月1日火曜日

岩櫃城忍びの乱に参戦して参りました!

昨日の晩に帰宅して、今日は一日ぺちゃんこになっておりました。

写真をアップして、飯を食って寝て、のくりかえし。夢で戦国の戦の情景を見てうなされました。リアルでした…

当時は人を殺せば、首を取れば褒章が出たのです。...
そりゃあ良い気持ちなんてありませんが、守るべきもののために、一所懸命やり続けたんです。
それが武人のステイタスだったし、そうでもしなければ自分たちのみが危ないのですから、これは大いに工夫をしてやったものです。
そのころSNSなんかがあったら、きっと獲った首やら殺した敵将の写真をあげる人も多かったことでしょう。

だからこそ無常感もこの上なく、双方の菩提を弔って、戦の後出家をし、心からの祈りを捧げて無名のうちに死んでいった、ということもたくさん、たくさんあったかもしれません。
武具や武芸の技なんかも、時代が変われば思い出したくもない、失傳するならば、それもまた、いやむしろ良いと思われたでしょう。今ではそんな気持ちもよくわかる気がします。

今回は私たちの先祖がそうやった生き抜いてきた地、戦国時代が最も最後まで続いたと言われる、吾妻の地の中心地、岩櫃城にて3度目のイベント、忍びの乱にお邪魔をし、先祖たちが磨き上げたであろう甲陽忍伝の技の基本を、当地のちびっ子と一緒に楽しんでまいりました。


そもそも忍者、という言葉すら存在しなかった天正のころ、伊賀甲賀で発生し、甲州でまとまったた山岳兵法を最も発展させ、正式な軍法として軍団を編成したのが真田氏だったと思われます。
忍者にして忍者に非ず、特殊作戦のプロ集団として彼ら吾妻衆は過酷な戦国の世を渡り歩いて行きます。

そんな先祖たちを育んだ吾妻、岩櫃の地において、大人も子供も楽しく交流・・・!当然敵味方となって相撃ちあった者たちのしそんであろう我々が・・・まさに恩讐を超えて、なのです。それもすんなりと。さも、当たり前のように!!

・・・まったく素晴らしき現代日本の情景ではありませんか!岩櫃が笑い声で一杯の平和の砦となったこの日、幾多の御霊たちもどれだけ慰められたことか・・・!!

先ほど夢から覚め、心の底よりそのように思うことができました。このイベントは、本当にやってよかったのだ、と。何よりの先祖たちへの餞なのだと確信した次第です。

この価値を噛み締めて、かたちは変われども、岩櫃でのイベント、これからも続けていって頂けたら私たちも嬉しいです。


内容のレポートはこちら。

去る10月29,30日、群馬県吾妻郡東吾妻町に位置する真田忍軍揺籃の地、岩櫃にて行われた『第3回岩櫃城忍びの乱』において、shinobiーzm代表の伊与久松凬が講演会『真田一族と甲陽流忍術〜真田十勇士の原像を訪ねて』および、吾妻流ちびっこ忍者道場をやらせていただきました。
また併せて、甲陽忍傳吾妻流の演武、忍具の展示な...ども行いました。



今回は天気も最高の秋晴れに恵まれ、第3回でスタッフの皆さんもこなれてきたということもあり、地方創成のイベントとしては素晴らしい盛り上がりを見せたのではないでしょうか。
おかげさまで講演会も体験道場も盛況のうちに終了することが出来、沢山の笑顔と出会えた喜びと、ほんの少しだけ先祖たちへの御恩返しができたのでは?という安ど感を覚えることができました。
リーダーの斉藤さんをはじめあざみの会さま、スタッフの皆様には大変お世話になりました。心よりの御礼を申し上げます。


さて、今回は真田忍者研究の徒にとっては特に素晴らしいことがありました。

吾妻や東信に調査に行くときには、常に『このあたりに忍びの伝承はありませんか?』と尋ねるのが常となっております。
今回も宿泊していた旅館の女将さんが、知り合いの方にすぐに電話をして下さり、善行寺平から真田様とともに岩櫃入りした地侍衆の一系の子孫の方とお話をさせて頂きました。
吾妻入りした年代が、私の先祖のころと近かったので、これは絶対に同じ隊伍にて出浦様の下軍働きをしていたということが解り、話に花が咲きました。
残念ながら直接的な忍び関係のお話はありませんでしたが、当時吾妻に蟠踞していた地侍衆は多かれ少なかれ山岳戦に特化した忍軍の態を成しておりましたので、広義の忍文化の申し子たちと言えるでしょう。

そして今回も私の講演会に、割田下総守重勝殿の末孫、割田喜一郎さんが聞きに来てくださいました。
割田さんは幼少のころ忍術を継承されていた御爺様から厳しく修業を付けられたという貴重な体験を持たれる方です。
吾妻に行くと必ず顔を見に出てきて下さり、貴重なリアルな忍びのお話を聞かせてくださいます。
今回も再開を祝してがっちりと握手。
星野様が持ってきて下さった天正?のころの鉄砲を構える割田さん。お土産まで頂き、まことに感謝兆畳_(_^_)_

また、その前日には当時入植された国友鍛冶の末裔、国友さんも遊びに来てくださり、鉄砲談義に花が咲きました。


さらにさらに!古城合戦の時にたった二人で城を落とした!とされる吾妻衆の最精鋭とも言える使い手、一場茂右衛門殿の末裔、一場様にも再会でき、今度伺ったときには一場氏の系図を見せてくださるというお申し出を頂きました!系図にはなんと真田昌幸様から感状を頂いた云々という記載もあるとのこと、この一場殿と私の先祖伊与久采女はやはり同じ時期に何度もともに合戦に従事しており、吾妻衆の中でも同期の桜とも言える?お家です(笑)一場さんも熱い心を感じる方で、お会いできて本当に嬉しかったです。


祢津潜龍斎殿の同族で、今も潜龍院跡の傍らにおられる町会議員の根津先生からは、今回も遅くまでお残り下さり、大変貴重なご教示を頂きました。


皆様から頂いたご縁とお心を、大切につなげて、ここ岩櫃で編成され真田の忍軍が、独特の文化的価値を持ったものだったという事を証明していきたいと、心を新たにいたしました。

2016年10月18日火曜日

行者杖の音

吾妻流として、纏めていかなくてはならないものに行者杖(金剛杖)がある。
中国の行者杖は孫行者で猿拳的だが、日本のそれは上に五輪を頂いた樫の棒で、役行者の伝統にあるのだろう。


これは僕の祖母とその親戚たちが妙義や榛名などの上毛の山々で修験の修行をした時に、お世話になったのかどんな関係があったのかは知らないが、法印さんと言って、在野の修行者がいて、その方が山を歩く時に使っていた杖の使い方らしい。


僕もその方の弟子筋なのか、息子なのか??山修行の先達さん(この人は本当に無口で、自分のことなどは殆ど語らない、謎の人だった(笑))について秩父や東北の行場を回ったことがあるから、祖母からというよりその方から多く学んだ。


いま、その方もなくなってずいぶん経ったので記すこともできるが、その頃は山に出入りしていても、その内容は他言無用ということだった(断食や瀧行、籠山行などはその方から学んだものです。何故多言無用だったのかというと、もともとそういった禁忌があったのか、おそらく民間の家でやっていて、宗教団体とは異なった儀軌だし、先達自体本職があったのですが、傍らでまじない、病気なおしみたいなこともされていたので、あまり目立ちたくなかったのではないでしょうか。)


歩き方や行者の杖の運用法(川衆とび・送り杖・繰り杖・数え歩きなど)は特にその本伝の内容ではないので、今思えば語っても良かったのではないか。(本伝の内容とは密教的なもの。所謂雑密ですね。)でも、口外すると佛罰云々と言われると、ちょっと怖かったというのもなきにしも非ず。

僕はその杖使いが大好きで、紹介状をかいてもらって伺った那智で誂えた2本目の杖を、今も大事に使っている。(あの時は決死の覚悟で行きました。5日間で紀伊半島を縦走、伯母子を超えて高野山につく時には足は血だらけ、目はギラギラだったです。一番真面目に行者をやっていた頃です。)




恐くて寡黙な先達曰く「杖がうまければ、50年たっても折れたりはしないもんだ・・・」
教えのお蔭か、それ以来行にあまり出ていないからか(笑)もう20年たった僕の金剛杖も、色こそ良い感じになってきたものの、底だけが丸くなっただけで、折れたりひびが入ったりはしていない。


この方の杖使いは、実に味があって、比叡の行者さんを彷彿とさせるものもあり、また武の内容もあり(昔は山で自衛する必要があったそうです)・・・これに祖母から学んだ数手の杖の技を錬りこんだものが、今の僕の行者杖となっています。

(★一時は薙刀や日月流の棒、形意棍術、八天無双流棒術、琉球古武道そしてこの行者杖を総合して(松風之棒)を作ろうとしたのですが、やはりそれには修行が足りない・・・あと20年練り直して、新たに一つ編めればいいかなあ、と思っております。)

2016年10月15日土曜日

飴と鞭、使うのは誰?

鍛錬は我慢・・・みたいな考え方がある。
理屈を超えるまで我慢する・・・
それはそうかも知れない。
でもそういった無理は心身を害する。


人生はフリーダム・・・みたいに考える人も多い。
道理を無視して生きる。
それにも共鳴はできる。
でもそれもいつまでも続けられるものでは無い。


理の無い所に結果は生まれない。
もしそれが功を奏したのなら、
そこには理外の理があったということ。
べつに我慢や自由を謳歌したからというわけではない。


我慢は我が慢心するという意味。
我を張って一人っきりで満足している。
鍛錬とは違うものだ。
空手の村上勝美師匠も言う。
無理のない無理積み重ね・・・と。


自由も我儘の追求ではない。
もしすべてのの欲求が我が儘に成就したとしても
そこに自由はないのだ。
不自由なこの心身を操作することでこそ
本当の自在を得ることができる。


そういう意味では大成した人は
須らく自分に厳しい一方で
自分の甘やかし方を知っている
飴を使うのも鞭を振るうのも
そこには意志が必要で
その中心があるからこそ
飴と鞭を適度に使い分けることができる。


鞭を食らい過ぎれば廃人かマゾヒストになる
飴を食らい過ぎれば心身の成人病まっしぐらだ。
大事なのはやはりそれらを統括する意志なのだ。
固くもなく柔らかすぎもせず
自分という器にぴったりの中心を
飴と鞭のさ中に探るのだ。

2016年9月30日金曜日

おのれこそ、おのれがよるべ・・・

僕のとこにある(マキビシ)は、針のところに返しがついていて、一度刺さったら、肉ごと抉らなければ抜けないようになっている。
黒く燻されているので、薄暮時以降、外では絶対に見つからないだろう。


これはある鍛冶職人さんが博物館に収めるために試作したものを分けてもらったので、実際使われていた本歌ものでは無いが、昔使われていたものを基に忠実に再現して、悪意、害意がむき出しで形状化されており、禍々しいことこの上ない。

...
一説によると、撒く前には馬糞や人糞など、汚いもので汚してから撒く。破傷風感染を期待しているらしい。
刺さった人を放っておくこともできないだろうから、数名の追っ手の足を止めることができる。一度刺されば、侍ならばしばらく出仕はできまい、というかそれがもとで武士を廃業、切腹をするところまで追い込まれた人も居たかもしれない。


そういったものを、そんな話を聞かせながら、僕は忍者教室に来た子供たちに触らせている。
となりの子が、マキビシを持つ子を転ばせたら・・・
持ってよそ見をして踏んづけたら・・・
投げつけて目に刺さったら・・・
最初はそういう心配で身体が固まったものだった。
こういったものを純真な子供たちに触れさせていいのかな?という想いもあった。


でも、実際に持たせてみると、ふざける子供は一人もいない。だって、ふざければ大けが、悪ければ死んじゃうってすぐわかるものだから。
神妙に先っちょを触って、ぶるっと震えて、そーっと隣の子に渡す。片手で扱う子なんて滅多にいない。ここのところは大人よりもずうっと弁えた動きが出るので感心する。

「・・・みんな、こんな怖いものが、ばらまかれて落ちていたり、暗くなったら狼や山賊がいるような時代、みんなのご先祖さまたちは大変だったんだろうね・・・昔の戦の時代に生まれなくて、本当によかったよね!!」というと、素直にコクリと頷くのだ。




だってそうでしょう?街灯もある。お巡りさんもいる。飢饉で親に売られることもない。人さらいや野盗なんかがうろついているわけでも無い。何よりマキビシが落ちていない夜道の素晴らしいこと!!これ、みんなあたりまえだろ!って思ってませんか??


・・・平和が、水道の水のように当たり前になってしまった、この素晴らしさ・・・ここがわからなければ、皮肉なことだけれど、逆に治安は悪化の一途をたどるだろうし、実際そうなっているよね。
だって、当り前のものなんて、誰も大事にしないのだから。


でも、人間そんなに馬鹿じゃない。とくに小さい子供は。
それは当たり前、という感覚が大人のように手のつけられないような頑迷さを帯びてはいないからというだけ。だから本来(あたりまえ)は無い、ということに気が付かなくてはならない。
悪意や暴力っていうものが、世界には満ち満ちていて、そういうものからは毅然と自分で身を護る、という(あたりまえのこと)を、大人が感じていないし、教えてもいない。
今の平和を十分に享受して、感謝することなく、人任せだから、子供もそれに習っておかしいことになるんだ。


この世の中には、危ないものが沢山あって、それから身を護る、大切な者たちを護る、財産を守る、そうやって悩みながら営々と歩んできた歴史を鑑みて、今の私たちの環境が、有難く、ちょっとない素晴しい状態なんだ、ということに、「生活者の視点」から気が付くことが出来れば、私たち自身がもっともっとエネルギーをチャージできるのにな、とおもいます。


有難きことに気が付くことが、現実を肯定的にとらえて、人を活き活きとさせてくれる秘訣。
個人が活き活きとしている生活者の集団は、健全な張りが保たれ、自己免疫、自己浄化、自己防衛本能も蘇ると思います。

おばあちゃんの太陽日記


祖母が亡くなる寸前までつけていた『太陽日記』というのがある。

祖母は武家の本尊、摩利支天を尊崇していたようで、毎朝神棚と仏前に長い時間をかけて祈ると、決まって朝日に向かって日輪の印を組んで、大きな口を開けて両の掌の真ん中にある太陽の光を吞み下す動作をしていた。

『太陽を呑んじまうんだよ』と言っていたが、それが実際どこから来た教えなのか、今となっては良くわからない。...

ただ祖母の古いアルバムの中には、伊与久一党で上毛の山々を金剛杖を持って巡拝している写真がある。摩利支尊天や不動明王のご真言や、六根清浄など、私も良く教わったものだが、それらはそういった山での体験に関係あったと言えるのではないか。

そもそも我が家は真田忍軍とも謂われた吾妻衆の家系。修験密教との所縁も深く、その出自は山の民であった可能性も考えられる。

そんな祖母がある日『にいちゃん、今日は太陽の中にこんな字が見えるんだよう。』などと言い、ノートに鉛筆で描いてみせた。

それは僕から見ると字には到底見えないようなものなのだが、変体仮名を究めた祖母としては、立派に崩し字だということで、それから毎日朝の太陽を見ては、その中に浮かんでは消える字?残像??を読み取って、ノートにつけるようになった。

僕は『あのね、それは網膜が火傷をしてるんであって、字な訳ないでしょ?それにそんなことを続けていたら目が潰れてしまうからやめなよ!!』と、再三注意をした。実は祖母がボケてしまったんだと思っていた。

しかしそんな孫の心配をよそに、祖母の太陽日記は継続していった・・・!

そしてとうとう『にいちゃん、この日はこんな天気になるよ』とか『昼過ぎから誰々が来るよ』などと言いだしたのだ。
ああ、やっぱりボケちゃったんだな・・・と情けない気持ちになったものだが、不思議なのは、それが時に、というか結構頻繁に正鵠を得ている、つまり現実を予言している?ようなときが出てきたのだ。

『おばあちゃんはさあ、毎日神様の前で、広く真っ直ぐな道を歩くような気持ちで拝んでいるんだ。それで太陽を喰っちゃうと、身体中が真っ白な光で一杯になるんだ。そうするともうおばあちゃんが神様になっちゃうんだよ。だから怖いものはなんにもないんだよ。』・・・本当に晩年はそんなことを言ってケロッとしていた。

一度など、しつこい宗教の勧誘員に向かって『あんたたちの神様も立派な神様かもしれないけど、あたしも神様なんだから家にはもう神様はいらないんだよ!!』と言い放つのを傍で聞いていて笑い死にそうになったこともあった(*´Д`)

ここで書くとちょっとアレなので書かないが、説明できないような不思議なこともあったり・・・そんなこんなで実に面白い祖母だったが、遺品の中のどこを探してもも、あのちいさなノートはみつからない。お棺に入れて燃やされてしまったのか、それとも今もどこかに仕舞われているのだろうか・・・?
今あれを見たら、いろいろ面白かったのではないか?時々あの不思議な日々を思い出しては、にんまりとすることがあるのだ。


2016年8月16日火曜日

済みません と 有難う

先日、長年稽古している生徒さんを嗜める場面がありました。

同じ間違いを繰り返してしまい、「すいません」を連呼して恐縮してしまう彼女。
引っ込んだ眼の光が、再び出てくる為には、彼女自身の、発想の転換が必要だと思いました。
...

伊「あのね、すいません。では済まないような深刻な場面を想定して、訓練していたとして、失敗したなら、誰に向かって済まなく思うべきなのかな??」

徒「・・・・」

伊「それは、そこで死んじゃうかもしれない自分に対してであって、漫画じゃないんだから『師匠・・・済みません・・・未熟でした』なんっつって死ぬわけないでしょ(笑)さすらいの武芸者ならまだしも」

徒「そうですが・・・」

伊「たとえば今日一日(すいません)って何回云いましたか?たぶん30回は言ってると思うよ。そんなに恐縮されたら教えてるこっちも、道場の雰囲気も(こちらこそすいません)になっちゃう。」

徒「では、どういったらいいのですか?」

伊「ぼくは(すいません)の代わりに(有難うございます)が良いと思いますよ。自分の不足を指摘してくれてるんだし、30回(ありがとう)を言っててごらんよ、自然と道場の雰囲気まで良くなってくると思わない?」

そこで彼女の顔が明るくなるのが解りました。


戦後の学校教育では平均到達地点を、誰でもできるところに引き下げてゆく(平等化)が奨められてきたように思えます。
だからそのラインを越えられない時は(くやしい)というよりも〈面目ない)となってしまいがちなのではないでしょうか。
先生もその機で教えますから(こんなことも解らんのか~!)と、どうしてもなってしまう。


武術は命を守る、という前提で行っています。

はじめの一歩から、基準の設定が違い、求められる認識や受け取り方が違います。
知っていたから命が守れた、という技術を学んでいるわけですから(ありがとう)が相応しいと、私は思います。

先生がぶれていないのだったならば、生徒さんはそれなりに変わってくるだろうし、変わらなければ、残念ながらその場の強度にマッチしなかった、ということになる。

でも、そんなだけでは冷たい関係になっちゃうのも嫌なので、生徒さんの認識を口八丁手八丁、崩していきたく思っています。

ただ、(ありがとう)を言うくらいなら(すいません)といった方が楽、という人も、増えてきている気はします。哀しいことではありますね。)

2016年8月11日木曜日

吾妻流『躰轉』

躰轉一つとっても段階があります。

①寝そべって片足の蹴りだけで反転する。

②上半身を反転させつつ、下半身は逆に蹴り正座で着地。

③上記の動きに背筋の伸展を加え、立膝で着地。

④立膝で着地するときに反転して再び伏せる。




昔の体術(少なくとも吾妻地方の)にはこんな身体使いが活かされていたらしい・・・

なぜ(らしい)というのかと言いますと、我が家で行われていたこういった(変な)身体遊びは、武芸躰術うんぬんという範疇では認識されていませんでしたし、これが活かされた武技という形で学んだことがないからです。


中国武術(長拳基本・蟷螂拳・峨眉派・八卦掌・形意拳など)の身体使いも、せんじ詰めればこういった奇正反転の動作というのがことのほか重要だということが、今だからこそ解ってきましたが、以前はこれとそれとの溝が埋まらず、また今より体重が20キロ以上も有ったので、再現も諦めておりましたもので・・・(*´Д`)タハハ・・・


でも、ようやっとこういった躰術と、伝統的な柔術や拳法の動作に関連性が見えてきました。「あ!これって武術の稽古だったんかい!?」みたいな感じです。

「おう!この転身を用いてじゃないとできない動作があるじゃあねえか!!」みたいな(笑)(例:丸身抜など)いまさらですが・・・


それだからこそ、子供たちにも躰術遊びを通じて、自己防衛やサバイバル能力の養成などをしていけるのではないかなあ・・・と、実感を以て考えられるのです。

2016年8月8日月曜日

体術関係、イベント目白押しです!!

忙しい~う~〜んなんて言ってるうちにもう8月!

これからさき、ドトーの躰術祭りに突入です(@_@;)

イベントが目白押しです。
どれも躰術に特化した、興味深いものです。
ご都合宜しい方は、ぜひ!!

①8月14日、伝統体術技法とその術理
https://www.facebook.com/events/197274117341713/
②8月21日、吾妻流忍術体験、大人と子供でスクーリング!
https://www.facebook.com/events/197274117341713/
③同日午後から夜、太和躰術協会、合同稽古会と暑気払い
https://www.facebook.com/events/1063264107102980/
④9月11日、第2回『武扇』セミナー
https://www.facebook.com/events/319668555034296/


           
伝統体術の伝道師として、死なない程度にがんばるぜ!!

2016年7月14日木曜日

カエルの剣道

子供には、理解できる範囲、頑張れる範囲というものがあって、それは大人のそれとは全く異質ですよね。 

でも、それを超えて、あえて擦りこんで行かなくてはならない習慣や技術というものがあったとすると、教えるほうの立場としては相当な覚悟や、子供に対する共感が必要だと思います。

無理強いもできない、しかし伝えるべきは伝えたい、という気持ち・・・
そんな気持ちを受け止めてもらえるように、大らかに、楽しげに、接していきたいと思います。

...
私が幼いころ、祖母は「お遊び」として稽古をつけてくれました。
虚弱で、気も弱く、根気も続かなかった私に、なんとか武道を、それも結構独自のものを印象付けるために、腐心したのだと思います。

青年期になり、バリバリ空手~中国武術をやっていた頃、祖母は時に竹刀をとり、また長刀を取って、やはり「遊び」の延長で伝授してくれました。


愚かな私は、祖母の技量が高いということなど、まったくわからないまま、むしろ逆に「相手をしてあげている」ような気持ちで祖母に向き合っていました。(このあたりの恥ずかしい話はたくさんあります(;´Д`))


この動画は、本当に幼いころに、短い期間行った「カエルの剣道」(蛙打ち)。何というものでもないのに、何故かとても印象に残っている素振りの一種です。

今、股が割れて太刀の身が立ち上がってみれば、やはりこれも歴とした轉坐・抜跳の前段階の鍛錬法でした。


私の代では、ほんのわずかに残った断片を、こういった鮮やかな印象を伴う要訣を手掛かりとしながら、志す人が、確実に出来るようになってゆく階梯というものを再創造して行かなくてはならない、と思っています。


雑草だらけの踏み跡みたいになってしまったこの道を、整備して、いつかは皆さんとハイキングに行きたいなあと思っているところなのです。

2016年6月30日木曜日

我を知り初めて他を知る蛙の子 それも又善しYES WE CAN!だね☆


もう20年ほど前、東京の小金井公園の畔に暮らしていた時のこと。

霜が降りる11月の武蔵野の雑木林の中で、小柄なお爺さんが見たこともないような太極拳を錬拳されていた。

その動きが上品で、見事で、何とも言えない神韻縹渺とした風格があ
ったので、ひと段落ついた所を見て、思わず声をかけてしまった。

ひょっとしたら日本語が通じない可能性もあったので、まずはは中国語で話しかけてみると
「大丈夫、私は日本人だよ。」と一言。

不思議で素晴らしい太極拳を、僭越ながらも褒め称えると、
「自分の到っているところ、至らぬところは自分が解っております。貴方のお言葉は大変ありがたいが・・・」と、簡潔に答えられた。

それまで出会った人は、自分も含めておおむね、ほめればうれしい顔をする。ケチをつければ当然不機嫌になる。

しかしそのご老人は、ぼくの評価などそよ風の様に受け流し、それでいて全く嫌みのない爽やかで暖かな眼差しで、僕をじっと見つめた。
「あなたは本格的なものを中々良く稽古をされてきたようですから、こんどは禅もおやりなさい。私が良い老師を紹介できますよ」と、また一言。
それからベンチで暖かいコーヒーを飲みながら、小一時間も話し込んでしまった。

そのご老人ーI老師は戦前、上海の東亜同文書院大学校に学び、日中のかけ橋を自任して活躍した方だった。中国にいるときは太極拳の素晴らしさに惹かれ、手ほどきを受けたらしい。
敗戦後、大変な思いを経て帰国、それでも中国への想いは消えず楊名時老師の唱導する太極拳の門に学び、また道元禅師の正法眼蔵随紋録に出会い、曹洞の禅を学ぶ。

どおりでそれまで見てきた太極拳とは一味違った風格な訳だ。楊名時老師の太極拳の表現の中に、I老師一代の大覚悟が溢れている・・・僕はその空気感に神々しささえ感じた。
それまで僕は、流派や伝承系統の純粋さ、実践的に使えるのか否か、だけを自分なりの評価の軸に据えていた。

老師との一期一会がなかったら、ひょっとしたらいまだに僕は正統非正統、有効非有効の二律の世界で消耗していたかもしれない。

しかし、こういった素晴らしい調和の風格を醸す在り方もあるのだ。理屈でなく、そう感じさせてくれた出会いだった。

思えばあのころはいろいろあった。自分の価値観もグラグラしていた。信じていたものを、頑なに守り通すことに限界を覚えていた時期でもあった。そんな時に老師の動きは素晴らしく美しいものに思えたのだった。

老師とのお付き合いは、これを皮切りに、おもに禅関係(多くは書簡や書籍の贈与など)をつうじてのものだったが、先生がお亡くなりになる前まで継続した。その中で学び得たものはこの年齢になって、より染みてくる内容が多い。

議論は異論を生むもの。異論はとうぜんは諍いの元となる。

異論でなく「それも又良しイエスかな」の心で(笑)
大らかにしていたって、全然かまわない。
残るべきものは残り、影響を与えるべき時には、文化的遺伝子はしっかりと残すものなのだ。形も大事だが、されど・・・高が・・・、と言うことを忘れないようにしたい。

オーソドックスにしがみついて、本質を失ってしまうということもありうるだろう。僕はむしろそれが怖いし、まったく性に合わないのだ。むろん横道に逸れ過ぎるということは重々注意・・・
そんな感じで自分のなかでもいっぱいいっぱいなんだから、人様のことなぞどうこう出来るとは、とてもじゃないけど思えないのだが・・・


そうやってゆったりとした構えで、脚下照顧しつつ歩んで行きたいものである。



2016年6月29日水曜日

祖母と(たちのみ)


あるとき祖母が「にいちゃんさぁ、長刀を持ってみなよう」と言ったので「あいよ」と答えて構えると、持っていた細い竹か何かですうっと退けられた。
足はおろか腰までよろよろした。
...
そして「にいちゃんがこれからもずうっと武道をやってれば、何時かは判ることだけど、やっているうちに躰の真ん中が剣みたいになってくるんだよう。足から腰から、こう、すーっと、さあ。それで人をやっつけるんだよ。何人掛かってきてもこれがあれば大丈夫なんだよ。」と。

え??それってギロンみたいな感じ??

とか思ったりしましたが、黙って聞いていました(笑)

まあさっぱり訳が分からないが、そういうことをよく言う人でもあり・・・それでもなんだか大切なことのような気がして大事にとっておいた話です。

そういっているうちに『独占女の60分』が始まったので「泉アキは面白いよねー」とか言いながら二人でテレビの前で素麺かなんかを食べました。

ここ数年、姜氏門の錬躰が身に着いてきたところに、村上勝美先生や順心斎老師といった不世出の名人たちの薫陶を戴いて、祖母の言っていた言葉、やっていた不思議なことがいろいろ甦り、ひょっとしてこういうことだったのか・・・という発見が頻繁に起こってまいりました。これは大変刺激的なことでした。
曰く、浮御堂。曰く、躰轉。曰く、猿渡。曰く轉坐・抜跳・・・ そうしてこの「太刀之身」。
(注:立ち飲みではありませんよ。好きですが:笑)

こういった思い出は、ほかにもいろいろありましたが、時期を見て、徐々に開けてくるモノなのだと思って、人ごとのように楽しみに見ております。  


いまこの体術を、先師たちに頂いた型と融合させて八つの基本形と整備しつつあります。
その根本は八つの太刀筋に込められた、八つの身法。

立・礼・蹲・揺・旋・轉・開・合です。

祖母より、神棚の前での礼拝作法が、躰術や人間同士の関係性など、すべての根本だと伺っておりますので、それに準じた構成になっております。

そこから体捌きや折敷き、蹲踞などが導入され、両手を束ねては離し、離しては束ねる稽古で陰陽進退開合などを学べるようになっています。

こうなると学ぶ方もがぜん学びやすいし、哲理があれば単なる運動ではなく躰術となってきます。
実現させたい夢だった«ご当地体育»「甲陽吾妻流★忍体操」の基本来たということになります(*'ω'*)

武扇の基本も、この躰動に扇を持たせたものなので、やはりこの範疇での躰術表現になります。

護身にも、身体開発にも、そして礼法や舞踊などにも応用が利き、さらにそれらを深めてくれるトランスファクターとしてのひとつの様式として、定着してくれればいいなあと思っております。

2016年6月24日金曜日

屈託なき笑顔に朝日映ゆるかな

尊敬する武術の大先輩から、大変嬉しいお言葉を賜りました。

普段褒められるということが皆無の生活をしておりますもので、天にもノボル・・・とはちょっとオーバーですが(笑)相当に励みになりました( ^)o(^ )vので、皆さんのお褒めの言葉、お待ちしております(@_@)


・・・というのは冗談ですが(笑)、私如きものは本当に武術に助けられ、扶けられ、援けられて今まで来たのだなあ、と感じております。武術を司る神様がいるのなら、心より感謝申し上げたい。...
ひとえにこれは技、それを運び来た道、ヒトこそが尊いので、珍獣なんぞはその掌中に遊ぶエテ公同全、偉大なる師匠たちの前では穴が有ったら隠れてしまいたい軽輩なのでございます。



そもそも私は7か月の未熟児で生まれました。
お産も大変だったそうで、母はそれで二人目を断念したそうです。紫のチアノーゼ状態で半死半生で保育器にひと月以上もいたのだそうです。その時に刻まれた心身の後遺症的なものは、今に至るまで影響を及ぼしております。

武術の家に生まれたのにもかかわらず、毎日天井を見ている自分を大人たちはどう思っているのだろうか、と毎日思い悩み、また特殊な家庭環境などもあって、幼少期は過度のストレスと虚弱の為、強度のチック症になってしまいました。

だから屈託なく育てたよその子がうらやましくて仕方がありませんでした。だからこそ心身の向上には人一倍興味があったのだと思います。

武術、荒事が多かった環境でしたが、私を救ったのも武術の稽古で得られる体力の向上や同学との友情、そしてこの世には達人がいる!という希望でした。

わたしはいじめられていた時もあったし、ぐったりしていた時もあったし、なんにもやらずにぶらぶらしていたこともありました。グレて危ない道に入っていったこともありました。無茶もいろいろやりました。でも、結局は武術・躰術が大きな指標になっていたので戻ってきてしまうのです。

大きく迂回しても、結局突き蹴りして、棒を振っている自分がいるのです。まあ、これからも多分その感覚は変わらないのだと思います。これが一番しっくりくる、自分らしいひと時になってしまっているのです。

なぜか武術・躰術に尽きない興味と面白さを感じる・・・これが武縁というものなのでしょうか・・・武術を長く続けておられる先輩方は、その点肯首されること多いのではないでしょうか。


身体が弱いとか心が平穏でない人が稽古会に何年も通ってくれていることと、私の幼少の経験と言うのは関係があるのだと思っております。それは自分は優等生だったり、特待生だったりしたことは一度もないという自覚があるからなのではないかと思っています。

嬉しいお言葉を賜って却って申し訳ないのですが、純然たるお褒めの言葉と言うのは、これはまったく私にとっては過分も過分・・・マイナスからの出発で、今でもとろとろやっている、と言うだけなのです。最近になってやっとすこしだけ・・・健康というものを享受することができてきた、これまでのことも無駄ではなかったのかなあ、と感謝を表すことが出来るようになってきました。
おじさんになって、やっと屈託なく、からりと笑えるようになってきたということでしょうか。

ただ一点・・・この道の味わいについては、深く繊細に、そのうま味を楽しむこと人後に落ちない所存です。だからこそ、ひと様にもお勧めもし、是非ご一緒に!と楽しんで行けるわけです。

そのような意味でも、親や師匠には感謝してもし切れないのでございます。長文失礼申しあげました_(._.)_

2016年6月15日水曜日

森渡る風もとぶらう落花哉

備忘録
今日も順心老人との稽古。

(注:順心斎老先生は、僕の柔術剣術のお師匠で、甲陽地方に残された諏訪古伝の体術を今に伝えるおそらく唯一の伝承者です。御年80ですが実戦で磨かれた技は衰えることを知らず、私は毎回めためたに扱かれて2年が経ちました。最近お友達になった方が多いので一応説明してみました。)

...
まず驚くのはその足腰の強さ。80歳の年齢を全く感じさせない粘り。よく四つ相撲をするのだが、一回たりとも押し込めたことがない。異常な強さだ。まるで牛と相撲をしているように感じる。
以前、といっても去年?ロシア人の2メートル、120キロある巨漢と押し相撲をして、相手は一歩も押させなかったというのだから凄い。大汗をかいて仕舞には地べたに座りこんだようだ。
押し込めない代わりに自分も押せなかったらしいが、柔の技を使うといとも簡単に地べたに突っ込まされてしまったというのを、目撃した数名の人から聞いている・・・世の中には化け物がいるもんだ。


ここ最近になって、順心斎斎先生の教えが全くぶれていないことに気が付いた。出会ってから、私は紆余曲折、迷いながら稽古をしてきたが、今日やっと師の教えの通りに動くことができたようだ。
すると、師の万力のような力で抑えられていたとしても、殆ど何の抵抗もなくスルリと投げ捨てることができた。

これは予想だにしない全く画期的な経験だった。なるほど、未だ言葉では何とも言えないが、手掛かりには十分な感覚。これが全身に及べば、大きな相手でも関係ないのかもしれない。
受け身をとりながら師は破顔一笑「2年教えてやっと私の言っていることを真に受けてくれましたね!」との言。まったく面目なく、申し訳なく、忝かった。


思うに最近上海の師父に直された経験がもろに効いていたようだ。


腰を中心に動く場合の、頭部のリードの配合の問題なのだが、少しの差が身体にラグを作って、一調子を阻害していたようだった。 むしろ手足などはほとんど動いていないくらいがいい。
まさに躰術が躰術たるゆえんだと再認識した。


諏訪の柔は肘当て、足当て、足払いを多用する。
その一つ一つが鋭く、早く、重い。師のそれを見るだに、もろに食らうとヤバイと思う。打つほどに高く、早く引く稽古をする。
80歳にも拘らず(…ってのが多いのだが:笑)ロー、ミドルを一気に蹴り分ける師。まったく経験したことのない蹴りのポジションは興味深い。しかしこれも去年見ていた姿とは違って見える。


つまり、何にも見えていなかったのだ。
いまでは腰から上がる力がありありと見える。


刀術に関しても、今日は目が開かれることが多かった。
何故組太刀を稽古するのか、その意味、どんな意識で行うのか。
武術は畢竟人を殺し、自分を守るものなので、その稽古は自然生き死にの稽古となる。その気で追及しなければ大成しないが、生涯使わないことを旨とする。実に無用の用の徳を養う。
一般の人からすると、考えられないような無駄であり、人様に決して勧めることのできるものでは無い、ということ。
その意識の上で行う組太刀。
髪の毛まで切り降ろされ、頭蓋に風を感じてピタリと止まる木刀。
必死の気構えで出ていかなくては、足を払う相手に乗って、上段を打つことが出来ない。それをさらに月の捌きに嵌め落として勝ちを得る・・・
うそっこで本当を生み出すのが組み太刀なんだよ、とにこやかに言うだが、そこに打ち込める隙は見当たらない。
残心の平中段、そこからの変化、左手の位置、前捌き・・・
山のごとく、海のごとく険しくて深い課題に今回も呆然としたのだった。


・・・じつは今日は師匠が可愛がっていた庵の近所に住む女の児の葬儀の日だった。僕も良くお話をしたことのあるその少女は、つい一昨日まで師の畑の傍で、飽きずに作業を見て「おじさんはよく働くんだねえ」と笑っていたのだという。

父親が朝突然訪ねてきて「夜に突然亡くなった」旨を知らせてきた。師は死に顔を見ると、それが心に残る、お別れは私の胸の中で行いますから・・・と言って参列は固辞されたそうだ。そのあと涙にくれる父親の肩を抱いて、しばらく一緒にいてあげたのだそうだ。
・・・あまりにも早すぎる、突然の命の幕切れに、命とは、生死とは、それを超えて流れるものや、人の思いと言ったことごとに思いを馳せずにいられなかった今日の稽古。
弔いの警笛が森を伝う風に乗って聞こえてきた。

先生と僕は森の中の道まで出て、風上に向かって、めいめい最後の挨拶をしたのだった。

2016年6月1日水曜日

第一回『武扇(ぶせん)』講習会IN東京

https://www.facebook.com/events/1798315373736196/

久々に動くイベントをやります!

第一回(ご要望があれば続けるという意味で第一回としました)
『武扇(ぶせん)』講習会、と銘打ってみました。


扇を使って身体のセオリーを学び、繊細でたおやかな表現の中に、まるで潮流のような強さが流れていることをお伝えできればと思っています。

なぜ申楽芸能から始まった能が、武術の奧妙に通じるのか?

礼法や芸能、武術、民俗舞踊などに伝わってきた心身のセオリー「規矩」を、拙き身ではありますが、精いっぱい楽しく、豊かに表現できたら、そしてその「古くて新しい知恵」を、みなさんとシェアしてゆけたらと思っています。

ピピッときた方は是非ご参加ください(^_-)-☆

(扇の数もありますので20人先着順とさせていただきます。もしご参加できなかった場合は悪しからずご了承ください)

〇参加定員:20人(運動の経験がなくても参加できます。)

〇費用:3,000円

〇太極扇がない方はレンタルできます。(一双で1000円)

〇場所:あざらし道場   東京都杉並区高井戸西2-10-25
(井の頭線 富士見ヶ丘駅(北口)より徒歩4分)




2016年5月14日土曜日

易不易②

さきほど太極拳の帰りに、アメリカから一時帰国されている中西さんご一家とカフェ105に向かって歩いていたところ、目の前の茂みからふわっと白い何かが躍り出て、目の前を通り過ぎました。
よく見るとチョウです。それも今まで見たこともないような…マダラチョウ?それともアゲハの羽が破損しているの?シロチョウの大型のものか??一瞬で頭の中の原色日本産チョウ類図鑑を検索しましたが、該当のものがおもいつきません(; ・`д・´)

僕も小学生から高校生までは、人後に落ちることないくらいのチョウきちでしたので、関東平野に生息するチョウで初見のものなどいないと思っていましたので、この遭遇には驚きました。

追っかけて見失うとまたもう一頭・・・
中西さんにお願いしてパチリと写真に収めました。


家に帰ってpcで検索・・・蓋を開ければ、なるほど、アカボシゴマダラの春型。
僕がチョウ屋を引退してから増えたという外来種でした!
年に3回も羽化して、在来種が肩身狭くなっちゃうような勢いで繁殖するえげつない種類なのだそうです。
あんなにゆったりふんわりしてるのにな・・・それにしても初めて見ました。それはそれで、感動!の出会いでしたよ☆


最近は日本の気候も変わり、以前は関東圏では見られなかった、もしくは少なかった種類の昆虫も、普通に見られることが多くなってきました。
チョウではナガサキアゲハやシロオビアゲハ、モンキアゲハなどの南方の大型アゲハをよく見かけます。
気候などの根本的なところが変わると、植物や昆虫層も、私たちの知らないうちにかわってきて、気が付けば以前とは全く違った風景になることも。
内側の変化というものが劇的に外側を変容させるのだなあと感心してしまいましたよ。


 (ちなみにアカホシゴマダラは、気候の変化というよりも人為的に持ち込まれたという見方が強いそうです。でも、気候が合致したからこそ繁殖しているので、やはり大地の気が変化した表れの一つなのだ、と納得しています。)

ちなみにこれは国チョウのオオムラサキ。おなじエノキを食草とする大型タテハの仲間です。
アカホシが増えると、こっちがすくなくなるんじゃね??とか考えられているそうです。

2016年5月11日水曜日

峨眉洪門宗師・楊兆源老師

阿形博志先生がfbにてシェアされた峨眉洪門拳法の楊兆源老師の記事!!

私が良師を求めて大陸をさまよっていた時期にお会いした最大の衝撃!がこの楊老師との邂逅でした。
この時は四川省武術拳械録に出ていた峨眉五花八葉の老師たちがご存命のうちに出来るだけお会いしてその蘊奥を見聞したい!と眺めに時間をとって、楽山市体育委員会の曾老師や外事班の王先生に同行していただいてなんと23名の伝統を伝える拳師にインタビュー&突撃取材をしたわけです。


...
この楊老師は、その折に伺った中で最高齢のお一人、御年なんと101歳!
民国末期で最も過激だったという、今でいうフルコンタクト試合「成都青羊宮雷台」にて、あまりにも強すぎてすべての相手を只の一突きで場外に転落、もしくは昏倒させ、4年目からは出場不可になったという伝説の武芸者。
しかし、文革以降は不遇で、私が訪ねた時の驚かれよう、喜びようは一方で無いものだったのを記憶しています。
思えば二打不要と言われた武術家は数あれど、最近までご存命だった最後のお一人だったのではないでしょうか。
お会いしまして初日に、外孫と当時武警教官だった外孫婿のかたと交流をさせていただきました。金網まで吹っ飛ばされる私を見る老師の御顔はとても楽しそうでした。
また、老師自ら私の手を取り技をかけてくださったときの軽やかさ、霊功なこと・・・写真を撮ったら手が残像だけになっていて、恐ろしい人が世の中に入るものだなあと思いました。
残念ながらあの後間もなくなくなられましたが、なんでも私が最後の外地からの来訪者だったとか。当時のフィルムはいまでも楽山電視台に残っているのでしょうか??

峨眉内功、この後も四川には数度訪ねて学んでおり、こちらで学んだ日月照手と言う技は、今の私の得意な手となっております。阿形先生、貴重な記事有難うございます!!

☆こちらのホームページの本文を 良く読んだら、僕のこと書いてありますね!!
・・・・・・1996年,日本武林盟友会代表伊与久大吾专程到夹江县拜访百岁拳师杨兆源,对老先生精湛的武功赞叹不已。 http://www.weixinyidu.com/n_2228812

鄒淑嫺師父92歳!!

先日は師父の母の日&数え92歳の誕生日(#^^#)bでした、上海の兄弟子に頼んで花を贈ってもらいました!!

八卦掌は不老長寿、永楽万春の素晴らしき躰術也!!


真不容易!我真佩服我師父了!!
徒弟完全相信師父活到壱百歳長寿!年年歳歳健健康康☆

繰り言


その門派が基本としている稽古法を見れば、大体の場合そこで何を大切にしているのかがわかります。
昔は武術に生き死にがかかる時代でしたので、ぜーーーーったいに、それらを見せたり、やすやすと教えることなどあり得なかったそうです。...
中には基本の基本と、その遥かに向こうの連続技は、公開してゆく方針の先生もいたかもしれません。


でも肝心かなめは、信頼できる少数の人にしか示さなかったし、示しても害のない人だったとしても、その人が曲解をして伝えてしまう恐れがある場合は、やはり数手省いたりして教えたものです。

教える側は、教えるだけの内容があるのだし、学ぶ側は、学びたくて来ているわけですから、教える側と学ぶ側が平等‼・・・な訳はあるはずもなく、教える側はいつだってフェイクを伝える権利があったのです。
学ぶものも、それで文句を言う筋ではないということが解っていました。だから「あなたは才能がないので武術はやめた方がいいです。」と弟子にいえる強さがあったわけです。(僕なんか過去3回ほど言われたことがありますよ:泣)

そういう意味で、今の人は甘い。と、いうか教わって当然☆お金払ってるんだから(*‘∀‘)…とか思ってる。これは無いですね"(-""-)"
まあ、学ぶ側もイノチガケのものを学ぶ、なんていう観念からしてないわけですから、こっち側が合わせてあげる必要もあるのかもしれませんね。



また平和・・・と言うだけでなく、情報技術の発展という面からも良い時代になったということもできるでしょう。動画などでふんだんに古伝の、しかも質の高い稽古法が、それも無料で!拝見できるようになるなんて…!こんな伝統のスーパーインフレーションな時代が来るとは、師匠方は絶対思いもよらなかったでしょうね。

でも、当然なんですが人は自分の体験、内実に照らし合わせてでしか判断はできないようになっているみたいなんですね。
だから僕がすごい!と思って見ているものでも、練達の士からすれば「こんな凡庸なもの」と映るでしょうし、実際20年前に小ばかにしていた動画(スンマセン)が、今見ると思ったよりすごくて自分の見識不足を痛感するなんてことも良くあります。

だから覚悟して記録を残そうとされる先人の方たちには頭が下がります。もう、拳や刀で切った張ったという時代ではないということを、伝承者自体が痛感していて、むしろ人類の無形の文化遺産としてアーカイブに保存して行くような遠大な志を感じるわけです。

そうすれば相応のものを相応の人が見て、相応の成果を引き出すことが出来る・・・これは技術を提供する側からすれば、人類愛に通じる、素晴らしいことだと思います。


では、受ける側はどうか・・・?
相応のものが学べば、鐘が打てば響く例えのごとく、一気に頓悟にに至ってしまうかもしれません。
しかし、なまくらな感性でものを見た場合、それなりの相応が引き出されてしまうでしょう。
誤解が曲解を生み、本来のものと大きく異なるものが保存される危険性があります。そんなことを言っている私自体、先人のものを完全に保っているのか、そのスピリットを継承しているのか、と言うことは甚だ疑問です。だからこそ稽古をせざるを得ない。こうなると行の世界です。

また良くも悪くもこの膨大なタイトルの海・・・これを泳ぎ渡れる人は、相当な見識を自分の中に打ち立てた人と言えるでしょう。溺れる人が藁の良しあしを考慮する余裕があるわけがありません。
ほとんどの人は好みでそれらを判断するでしょう。好みでものの良しあしを図れるとしたならば、戦争はなくなり法律は要らなくなるでしょう。「好みで無いけれど学ぶところがある」というような「不味いもの」でも食べるべき時は食べる!みたいな感覚でなくては、所詮旦那芸に終わってしまうかもしれません。

・・・やっぱり大事なのは、基本を深く稽古してゆく、そしてその中の哲理や要求を自分のものとして内在化させてゆく、本当の意味での伝承作業をおこなってゆくしかないのだと思っています。
ふりだしに戻る、というわけですね(∩´∀`)∩

2016年4月23日土曜日

祢津潜龍斎昌月殿

テレビ収録も終わり、密岩神社前は撤収に入ります。
そこで思わぬサプライズが!
私的には二人のスターとの共演に勝るとも劣らぬ興奮(#^^#)の、念願だった潜龍院跡探訪に連れて行ってもらえることに!


寺の開基である祢津潜龍斎昌月は、武田家旧臣の修験者のまとめ役で寺島さん・・・でなく出浦対馬様の参謀として諜報ルートの要を握っていた怪人。
「真田丸」初回でも有名な天目山の武田崩れの前に、草刈さん・・・じゃなかった、真田昌幸公の命で武田勝頼公を迎える山城を作ったのがこの人物。
結局勝頼公は唆され、自ら退路を断って族滅の運命を辿られたのは皆さんもご存知の通り。

...
その潜龍院に、末孫で郷土史家の祢津先生自らご案内下さり重要で示唆に富んだお話を伺うという、何とも贅沢なひと時を与えられました。
祢津先生の家は本院である潜龍院から沢を下ったところにある子院を受け持つ家柄であり、代々修験、馬医、製薬に従事してきたという忍者の典型の様なお家柄。
本院からの呼び出しは、沢伝いに伸びる呼子で、それが鳴ると急いで沢を登っていったのだとか。
寺の後背は天を衝く岩櫃の大絶壁ですが、吾妻渓谷に向かった前側も巨大な岩で隠されており、向こうからは全くこちらに何があるのかわからないような、要塞としてはこの上ない立地でした。
この立岩がかの有名な「来福寺左京物見の岩」。

 来福寺左京も元武田家旧臣で、潜龍斎とともに真田の修験・忍者の参謀として活躍したといいます。

真田に忍者はいなかった・・・と言っている人が、いまだたくさんいますが、何の根拠で言っているのか甚だ疑問です??地元にはこういった痕跡がまだまだたくさん残っており、真田領、とくに吾妻は伊賀甲賀と並ぶ忍者の郷なのです。
 

いやいや、今回も素晴らしきリアル忍者を訪ねる旅になりました(^_-)-☆潜龍院は密岩神社から徒歩10分。あざみの会さんがうっそうとしていた跡地を綺麗に整備されて、今は広々とした気持ちのよい散歩コースになっています。

皆様もぜひ行かれて、ひとときを真田忍軍の夢の跡に思いを馳せてみては如何でしょうか。

2016年4月22日金曜日

群馬テレビ ジョイの「ジョイント」に出演して参りました。

真田忍軍吾妻衆の先生役ということで、こんど群馬テレビさんの人気番組「joint!」に出演することになりました。

色々な試練を、ジョイさんとゲストのタレントさんにチャレンジしてもらうという企画。
わたしはその師範兼審判役というのを仰せつかったようです。...
当稽古会でよく行っている礼法や訓練法を、面白くアレンジしてお二人に競って頂くということです。


お二人ともモデル出身で身体も動くので、ちょっとどうなるか楽しみです( *´艸`)
私のほかにも吾妻衆の末裔の方が来てくださるようです。こっちも大分楽しみなのです。
先祖たち吾妻衆が活躍した岩櫃城の大絶壁の下で、こんなイベントに立ち会えるなんて、本当に不思議な感じがしています。 週録は来週。どうなることやら・・・(^_-)-☆

そして当日!!
大きな行事の前、必ずと言っていいほど体調を壊すワタシ・・・こういうお試し、いい加減もうやめてイージーモードにならんかな(*_*;
でも、そういうときこそ「おもしれえじゃねえか!」って気合いで越えて参った。
今回も殆ど眠れずウンウン唸っていたのですが、本番!でスイッチが変わった(笑)

ジョイさんは気使いの名人。その場の空気を一瞬にして明るく楽しい雰囲気に変えちゃう。アドリブも当意即妙で、流石プロ!と思わせるオーラの持ち主。しかもイケメン高身長と言うハイスペックさ(^O^)/

ジュノンボーイでニンニンジャーな西川俊介君は素直で親和的な雰囲気の持ち主。イケメンというより美少年といったほうがぴったりな、私とは異世界の王子様でした(#^^#)
...
そんな群馬の素敵な若手お二人と、甲陽忍傳吾妻流を代表して諏訪の拙者と甲州の日原兄が、何のご縁のいたずらか先祖鴻業の地、岩櫃でご一緒させていただくことに…人生って本当に何があるか判りませんね~☆

ネタばらしはできませんが、吾妻流忍法5つの関門!ということで結構本格的な?修行と勝負をしていただきました。
たぶん…いや、絶対、相当面白い出来に仕上がっている感触がありました。

不慣れなお仕事に、いやな顔一つせずお付き合いくださった群馬テレビのスタッフのみなさん、送り迎えから何からお世話になった斉藤さんをはじめとした東吾妻町の皆様、仕事を休んで受けをとってくれた日原兄、そして紺碧の大絶景で我々を迎えてくれた岩櫃山!
本当にありがとう!!

http://www.gtv.co.jp/program/variety/joynt/ ジョイント、放映が待ち遠しいぜ~(^_-)-☆

2016年4月12日火曜日

古池の布袋葵の花のごと浮いて根を張る浮御堂哉

子供のころ、祖母が「兄ちゃん、浮御堂っていうお堂があるんだよ」と言って、やおら立ち上がると「ほら、こんな風に、風が吹いたらスーーーっと、湖の上をお堂が滑って行くんだよ」
普段でも身が軽い祖母の身体が、まるで紙で出来た人形が風に吹かれるように一層軽く、畳の上を平行に移動して行きました。



「兄ちゃん、お侍はね、風に乗るみたいにしていたから沢山の敵に囲まれても怖くなかったんだよ。山の中でも谷でも砂の上でも風は吹いているからね。どんな重いお堂だって、水に浮いてれば風でスーッと行っちゃうんだからねぇ・・・」...
そう言って祖母は薙刀や刀を、まるで玩具のように取り扱って見せてくれたものでした。


・・そんな風景が、この風の強い八ヶ岳に住むようになってよく想起されます。
浮御堂という言葉の印象自体は、よほど強かったのですが、それが具体的な武術の身体運用の秘訣だったということが理解できたのは、祖母が亡くなってずーっと経ってからのことでした。
○弁天号から竹生島を望む

八卦掌や太極拳を錬り、奇正相生が体現されてくると、歩みの中に陰陽を相齊させる陰中之陽と陽中之陰の作用が出てきます。
身体を斜めに、まるで梁の様に補いリードするこの感覚が生まれることで、自分の身体使いは(あくまでも当社比ですが:笑)滑らかになり、今のバランスの状態を自覚することがより精密になってきました。


中国の師父に「浮力」の養成だということで頭の上に盃を載せられ、幾つかの型を学んだときのこと。
祖母もまた、頭にものを載せたり、手のひらの上でものを直立させたりすることが巧みだったことが思い出されてきました。
私自身は軽業師・大道芸のようなことは、正直嫌悪感がありましたので、あまり真面目に受け止めなかったものでしたが・・・思えばこれが浮御堂のための訓練だったのだ、と理解が追い付き、点と点が繋がったのは、恥ずかしながらつい最近のことです(◞‸◟)


そんなこんなで、この前琵琶湖に行ったとき、浮御堂の実物を見てやろうじゃないか!と思い調べたところ・・・
なんと!堅田の浮御堂は湖の上に「あたかも」浮いているかのように建てられた、立派な「不動産物件」だったのでした!!
風が吹いたところでしっかりと基礎が地面に作ってあるので、ソヨとも動かない本物の浮御堂を知って「なんだよ婆さん!全然浮いとらんやないかーーーい!!」と突っ込んだのは当門の秘密・・・★です(笑)

鰯の頭も信心と言いますが、イメージを想起させる良いコトバが、人の身体すら変化させることもある、というお話です。

☆後ほど調べたら、琵琶湖だけでなく全国各地に浮御堂は作られているらしいです、ひょっとしたら実際浮いているような作りのものも、過去あったのかもしれません。念のため。

2016年4月11日月曜日

春、『武扇』をはじめてみませんか?

八千代稽古会の会場になっている公園は桜の名所。

花曇りの蕩風そよぐ中、桜色の野辺にて舞う武扇の心地ちの良さよ!



...
舞う姿は優美なれど、その姿形には勁を秘め、気韻生動するさまは龍が遊び鳳が羽搏くが如し・・・身体の融通性を導き出す素晴らしいボディ・アーツだと思っています。
詳しくはまたお知らせいたします。ご興味ある方は、ご一緒に舞ってみませんか(∩´∀`)∩



『武扇』は、扇舞の表現を借りて、内功武術や柔術、剣術の理合いを探ってゆける新しいボディ・アーツとして私、伊与久松凬が創始しました。

姜氏門八卦掌の歩法と身法、秘宗拳の架構、峨眉内功の旋転、諏訪神伝刀術や吾妻流躰術の術理を、優美で柔らかな舞踊の中に溶かし込み、伝統武芸に伝わった『身体の知恵』を、楽しく学べるように工夫しました。

一人で舞い、時に二人で勁力を試し合い、また相手の動きや自然の風に乗って舞うことで、しなやかで強い身体の軸と、そこから生まれる融通性を獲得してゆきます。

両手に扇を持つことで身体の一軸運動が強調されます。これによって得られる、まるでコマのような旋轉は、押さえるものの力を根こそぎ巻き込み、無力化してしまいます。
写真のT氏は中国武術や合気系の武道を幾つか遍歴して、当会に入門されたのですが、まさか扇踊りをさせられるとは思っても見なかったようです(笑)でも、この通り見事やわらかくて強い軸動を体現できるようになってきました。最近ではすっかり武扇にハマっておられるようです


・・・去年は試運転で、門人の中で稽古を重ねてきましたが、中々に好評で、そろそろろ一般の方にもご披露してみようかなあ、という気持ちになって参りました。
武芸・武道家だけでなく、ダンス、ヨガ、気功、ストレッチ、各種スポーツを志す方にも、また健康を志向する色々な年代の方にも得るところがあり、楽しんでご参加いただける内容にしたいと思っています。

まず手始めに、6月は『はじめての武扇』セミナーをやってみようと企画中(*‘∀‘)

ご興味のある方が一定以上おられた場合、月一回くらいの割合でお稽古会を開催するのもいいかもしれません。


2016年4月9日土曜日

御柱祭り~山出し曳行

私にとって今回の御柱山出しは,今までの歴史感覚というものを変えるような、大変センセーショナルな出来事の連続でした。


地表に現れる姿は変わっても、その根っこは、恐らくは縄文の太古より寸毫たりとも変わらず、つらなり来たった人々によって伝えられてここにある、と直感させてくれた森と湖の祭り。


若き日に師事した、ある先達が語った秘事があります。
...
それは「祭りは眞釣り合いに通じ、太初より剖判したる天の刻・地の理・人々の和がふたたび揃うた時、その真空の真中を神柱が貫き、太和之気が兆すことで、初めてモノゴトは成就する」というもの。



そんな昔伝えの創世の妙理を、祭式、規模、そして人々の熱狂をもって、あり余るほどの雄弁さで想起させるこの祭りの輪に自分がいたと言う事。そしてまだその輪は閉じていないのだと言う事。こんな生き通しの命の連続性というものを、感じたことってなかったかもしれません。

自分がどこにいて、何者で、いまはいったいいつなのか・・・

 そもそも自分は何一つ確かなことなど知らないのだと言う事。

そしてそんなことすらどうでもよくなってしまう瞬間というのがあるんですね。そしてそれが祭りなのですね。


ものの本によれば、諏訪の文化が際立ってユニークなのは、この日本の臍に蟠居してきた人々の血統が、本州のその他の場所よりもアイヌや琉球などのまつろわぬ民のそれに近いということ。
健南方の神話を待つまでもなく、まさに諏訪人の息吹きは原始に直結しているのだと思いました。



そして御柱の興奮覚めやらぬ翌日、仲間たちと、もうひとつの諏訪古伝の息吹きを尋ねて、八ヶ岳山腹の森の中にある庵を訪れました。
そこは活きた諏訪の御手振りを伝える童顔白髪の翁が、莞爾として天狗秘伝の大法螺を吹き鳴らして、三千世界の桃の実を醸した仙酒を傾けつつ、闖入者を祭りの庭へと誘ったのでした。
まさにまさに、冥加絶妙の数日間だったのでした。