2016年5月14日土曜日

易不易②

さきほど太極拳の帰りに、アメリカから一時帰国されている中西さんご一家とカフェ105に向かって歩いていたところ、目の前の茂みからふわっと白い何かが躍り出て、目の前を通り過ぎました。
よく見るとチョウです。それも今まで見たこともないような…マダラチョウ?それともアゲハの羽が破損しているの?シロチョウの大型のものか??一瞬で頭の中の原色日本産チョウ類図鑑を検索しましたが、該当のものがおもいつきません(; ・`д・´)

僕も小学生から高校生までは、人後に落ちることないくらいのチョウきちでしたので、関東平野に生息するチョウで初見のものなどいないと思っていましたので、この遭遇には驚きました。

追っかけて見失うとまたもう一頭・・・
中西さんにお願いしてパチリと写真に収めました。


家に帰ってpcで検索・・・蓋を開ければ、なるほど、アカボシゴマダラの春型。
僕がチョウ屋を引退してから増えたという外来種でした!
年に3回も羽化して、在来種が肩身狭くなっちゃうような勢いで繁殖するえげつない種類なのだそうです。
あんなにゆったりふんわりしてるのにな・・・それにしても初めて見ました。それはそれで、感動!の出会いでしたよ☆


最近は日本の気候も変わり、以前は関東圏では見られなかった、もしくは少なかった種類の昆虫も、普通に見られることが多くなってきました。
チョウではナガサキアゲハやシロオビアゲハ、モンキアゲハなどの南方の大型アゲハをよく見かけます。
気候などの根本的なところが変わると、植物や昆虫層も、私たちの知らないうちにかわってきて、気が付けば以前とは全く違った風景になることも。
内側の変化というものが劇的に外側を変容させるのだなあと感心してしまいましたよ。


 (ちなみにアカホシゴマダラは、気候の変化というよりも人為的に持ち込まれたという見方が強いそうです。でも、気候が合致したからこそ繁殖しているので、やはり大地の気が変化した表れの一つなのだ、と納得しています。)

ちなみにこれは国チョウのオオムラサキ。おなじエノキを食草とする大型タテハの仲間です。
アカホシが増えると、こっちがすくなくなるんじゃね??とか考えられているそうです。

2016年5月11日水曜日

峨眉洪門宗師・楊兆源老師

阿形博志先生がfbにてシェアされた峨眉洪門拳法の楊兆源老師の記事!!

私が良師を求めて大陸をさまよっていた時期にお会いした最大の衝撃!がこの楊老師との邂逅でした。
この時は四川省武術拳械録に出ていた峨眉五花八葉の老師たちがご存命のうちに出来るだけお会いしてその蘊奥を見聞したい!と眺めに時間をとって、楽山市体育委員会の曾老師や外事班の王先生に同行していただいてなんと23名の伝統を伝える拳師にインタビュー&突撃取材をしたわけです。


...
この楊老師は、その折に伺った中で最高齢のお一人、御年なんと101歳!
民国末期で最も過激だったという、今でいうフルコンタクト試合「成都青羊宮雷台」にて、あまりにも強すぎてすべての相手を只の一突きで場外に転落、もしくは昏倒させ、4年目からは出場不可になったという伝説の武芸者。
しかし、文革以降は不遇で、私が訪ねた時の驚かれよう、喜びようは一方で無いものだったのを記憶しています。
思えば二打不要と言われた武術家は数あれど、最近までご存命だった最後のお一人だったのではないでしょうか。
お会いしまして初日に、外孫と当時武警教官だった外孫婿のかたと交流をさせていただきました。金網まで吹っ飛ばされる私を見る老師の御顔はとても楽しそうでした。
また、老師自ら私の手を取り技をかけてくださったときの軽やかさ、霊功なこと・・・写真を撮ったら手が残像だけになっていて、恐ろしい人が世の中に入るものだなあと思いました。
残念ながらあの後間もなくなくなられましたが、なんでも私が最後の外地からの来訪者だったとか。当時のフィルムはいまでも楽山電視台に残っているのでしょうか??

峨眉内功、この後も四川には数度訪ねて学んでおり、こちらで学んだ日月照手と言う技は、今の私の得意な手となっております。阿形先生、貴重な記事有難うございます!!

☆こちらのホームページの本文を 良く読んだら、僕のこと書いてありますね!!
・・・・・・1996年,日本武林盟友会代表伊与久大吾专程到夹江县拜访百岁拳师杨兆源,对老先生精湛的武功赞叹不已。 http://www.weixinyidu.com/n_2228812

鄒淑嫺師父92歳!!

先日は師父の母の日&数え92歳の誕生日(#^^#)bでした、上海の兄弟子に頼んで花を贈ってもらいました!!

八卦掌は不老長寿、永楽万春の素晴らしき躰術也!!


真不容易!我真佩服我師父了!!
徒弟完全相信師父活到壱百歳長寿!年年歳歳健健康康☆

繰り言


その門派が基本としている稽古法を見れば、大体の場合そこで何を大切にしているのかがわかります。
昔は武術に生き死にがかかる時代でしたので、ぜーーーーったいに、それらを見せたり、やすやすと教えることなどあり得なかったそうです。...
中には基本の基本と、その遥かに向こうの連続技は、公開してゆく方針の先生もいたかもしれません。


でも肝心かなめは、信頼できる少数の人にしか示さなかったし、示しても害のない人だったとしても、その人が曲解をして伝えてしまう恐れがある場合は、やはり数手省いたりして教えたものです。

教える側は、教えるだけの内容があるのだし、学ぶ側は、学びたくて来ているわけですから、教える側と学ぶ側が平等‼・・・な訳はあるはずもなく、教える側はいつだってフェイクを伝える権利があったのです。
学ぶものも、それで文句を言う筋ではないということが解っていました。だから「あなたは才能がないので武術はやめた方がいいです。」と弟子にいえる強さがあったわけです。(僕なんか過去3回ほど言われたことがありますよ:泣)

そういう意味で、今の人は甘い。と、いうか教わって当然☆お金払ってるんだから(*‘∀‘)…とか思ってる。これは無いですね"(-""-)"
まあ、学ぶ側もイノチガケのものを学ぶ、なんていう観念からしてないわけですから、こっち側が合わせてあげる必要もあるのかもしれませんね。



また平和・・・と言うだけでなく、情報技術の発展という面からも良い時代になったということもできるでしょう。動画などでふんだんに古伝の、しかも質の高い稽古法が、それも無料で!拝見できるようになるなんて…!こんな伝統のスーパーインフレーションな時代が来るとは、師匠方は絶対思いもよらなかったでしょうね。

でも、当然なんですが人は自分の体験、内実に照らし合わせてでしか判断はできないようになっているみたいなんですね。
だから僕がすごい!と思って見ているものでも、練達の士からすれば「こんな凡庸なもの」と映るでしょうし、実際20年前に小ばかにしていた動画(スンマセン)が、今見ると思ったよりすごくて自分の見識不足を痛感するなんてことも良くあります。

だから覚悟して記録を残そうとされる先人の方たちには頭が下がります。もう、拳や刀で切った張ったという時代ではないということを、伝承者自体が痛感していて、むしろ人類の無形の文化遺産としてアーカイブに保存して行くような遠大な志を感じるわけです。

そうすれば相応のものを相応の人が見て、相応の成果を引き出すことが出来る・・・これは技術を提供する側からすれば、人類愛に通じる、素晴らしいことだと思います。


では、受ける側はどうか・・・?
相応のものが学べば、鐘が打てば響く例えのごとく、一気に頓悟にに至ってしまうかもしれません。
しかし、なまくらな感性でものを見た場合、それなりの相応が引き出されてしまうでしょう。
誤解が曲解を生み、本来のものと大きく異なるものが保存される危険性があります。そんなことを言っている私自体、先人のものを完全に保っているのか、そのスピリットを継承しているのか、と言うことは甚だ疑問です。だからこそ稽古をせざるを得ない。こうなると行の世界です。

また良くも悪くもこの膨大なタイトルの海・・・これを泳ぎ渡れる人は、相当な見識を自分の中に打ち立てた人と言えるでしょう。溺れる人が藁の良しあしを考慮する余裕があるわけがありません。
ほとんどの人は好みでそれらを判断するでしょう。好みでものの良しあしを図れるとしたならば、戦争はなくなり法律は要らなくなるでしょう。「好みで無いけれど学ぶところがある」というような「不味いもの」でも食べるべき時は食べる!みたいな感覚でなくては、所詮旦那芸に終わってしまうかもしれません。

・・・やっぱり大事なのは、基本を深く稽古してゆく、そしてその中の哲理や要求を自分のものとして内在化させてゆく、本当の意味での伝承作業をおこなってゆくしかないのだと思っています。
ふりだしに戻る、というわけですね(∩´∀`)∩