その門派が基本としている稽古法を見れば、大体の場合そこで何を大切にしているのかがわかります。
昔は武術に生き死にがかかる時代でしたので、ぜーーーーったいに、それらを見せたり、やすやすと教えることなどあり得なかったそうです。...
中には基本の基本と、その遥かに向こうの連続技は、公開してゆく方針の先生もいたかもしれません。
でも肝心かなめは、信頼できる少数の人にしか示さなかったし、示しても害のない人だったとしても、その人が曲解をして伝えてしまう恐れがある場合は、やはり数手省いたりして教えたものです。
教える側は、教えるだけの内容があるのだし、学ぶ側は、学びたくて来ているわけですから、教える側と学ぶ側が平等‼・・・な訳はあるはずもなく、教える側はいつだってフェイクを伝える権利があったのです。
学ぶものも、それで文句を言う筋ではないということが解っていました。だから「あなたは才能がないので武術はやめた方がいいです。」と弟子にいえる強さがあったわけです。(僕なんか過去3回ほど言われたことがありますよ:泣)
そういう意味で、今の人は甘い。と、いうか教わって当然☆お金払ってるんだから(*‘∀‘)…とか思ってる。これは無いですね"(-""-)"
まあ、学ぶ側もイノチガケのものを学ぶ、なんていう観念からしてないわけですから、こっち側が合わせてあげる必要もあるのかもしれませんね。
また平和・・・と言うだけでなく、情報技術の発展という面からも良い時代になったということもできるでしょう。動画などでふんだんに古伝の、しかも質の高い稽古法が、それも無料で!拝見できるようになるなんて…!こんな伝統のスーパーインフレーションな時代が来るとは、師匠方は絶対思いもよらなかったでしょうね。
でも、当然なんですが人は自分の体験、内実に照らし合わせてでしか判断はできないようになっているみたいなんですね。
だから僕がすごい!と思って見ているものでも、練達の士からすれば「こんな凡庸なもの」と映るでしょうし、実際20年前に小ばかにしていた動画(スンマセン)が、今見ると思ったよりすごくて自分の見識不足を痛感するなんてことも良くあります。
だから覚悟して記録を残そうとされる先人の方たちには頭が下がります。もう、拳や刀で切った張ったという時代ではないということを、伝承者自体が痛感していて、むしろ人類の無形の文化遺産としてアーカイブに保存して行くような遠大な志を感じるわけです。
そうすれば相応のものを相応の人が見て、相応の成果を引き出すことが出来る・・・これは技術を提供する側からすれば、人類愛に通じる、素晴らしいことだと思います。
では、受ける側はどうか・・・?
相応のものが学べば、鐘が打てば響く例えのごとく、一気に頓悟にに至ってしまうかもしれません。
しかし、なまくらな感性でものを見た場合、それなりの相応が引き出されてしまうでしょう。
誤解が曲解を生み、本来のものと大きく異なるものが保存される危険性があります。そんなことを言っている私自体、先人のものを完全に保っているのか、そのスピリットを継承しているのか、と言うことは甚だ疑問です。だからこそ稽古をせざるを得ない。こうなると行の世界です。
また良くも悪くもこの膨大なタイトルの海・・・これを泳ぎ渡れる人は、相当な見識を自分の中に打ち立てた人と言えるでしょう。溺れる人が藁の良しあしを考慮する余裕があるわけがありません。
ほとんどの人は好みでそれらを判断するでしょう。好みでものの良しあしを図れるとしたならば、戦争はなくなり法律は要らなくなるでしょう。「好みで無いけれど学ぶところがある」というような「不味いもの」でも食べるべき時は食べる!みたいな感覚でなくては、所詮旦那芸に終わってしまうかもしれません。
・・・やっぱり大事なのは、基本を深く稽古してゆく、そしてその中の哲理や要求を自分のものとして内在化させてゆく、本当の意味での伝承作業をおこなってゆくしかないのだと思っています。
ふりだしに戻る、というわけですね(∩´∀`)∩
学ぶものも、それで文句を言う筋ではないということが解っていました。だから「あなたは才能がないので武術はやめた方がいいです。」と弟子にいえる強さがあったわけです。(僕なんか過去3回ほど言われたことがありますよ:泣)
そういう意味で、今の人は甘い。と、いうか教わって当然☆お金払ってるんだから(*‘∀‘)…とか思ってる。これは無いですね"(-""-)"
まあ、学ぶ側もイノチガケのものを学ぶ、なんていう観念からしてないわけですから、こっち側が合わせてあげる必要もあるのかもしれませんね。
また平和・・・と言うだけでなく、情報技術の発展という面からも良い時代になったということもできるでしょう。動画などでふんだんに古伝の、しかも質の高い稽古法が、それも無料で!拝見できるようになるなんて…!こんな伝統のスーパーインフレーションな時代が来るとは、師匠方は絶対思いもよらなかったでしょうね。
でも、当然なんですが人は自分の体験、内実に照らし合わせてでしか判断はできないようになっているみたいなんですね。
だから僕がすごい!と思って見ているものでも、練達の士からすれば「こんな凡庸なもの」と映るでしょうし、実際20年前に小ばかにしていた動画(スンマセン)が、今見ると思ったよりすごくて自分の見識不足を痛感するなんてことも良くあります。
だから覚悟して記録を残そうとされる先人の方たちには頭が下がります。もう、拳や刀で切った張ったという時代ではないということを、伝承者自体が痛感していて、むしろ人類の無形の文化遺産としてアーカイブに保存して行くような遠大な志を感じるわけです。
そうすれば相応のものを相応の人が見て、相応の成果を引き出すことが出来る・・・これは技術を提供する側からすれば、人類愛に通じる、素晴らしいことだと思います。
では、受ける側はどうか・・・?
相応のものが学べば、鐘が打てば響く例えのごとく、一気に頓悟にに至ってしまうかもしれません。
しかし、なまくらな感性でものを見た場合、それなりの相応が引き出されてしまうでしょう。
誤解が曲解を生み、本来のものと大きく異なるものが保存される危険性があります。そんなことを言っている私自体、先人のものを完全に保っているのか、そのスピリットを継承しているのか、と言うことは甚だ疑問です。だからこそ稽古をせざるを得ない。こうなると行の世界です。
また良くも悪くもこの膨大なタイトルの海・・・これを泳ぎ渡れる人は、相当な見識を自分の中に打ち立てた人と言えるでしょう。溺れる人が藁の良しあしを考慮する余裕があるわけがありません。
ほとんどの人は好みでそれらを判断するでしょう。好みでものの良しあしを図れるとしたならば、戦争はなくなり法律は要らなくなるでしょう。「好みで無いけれど学ぶところがある」というような「不味いもの」でも食べるべき時は食べる!みたいな感覚でなくては、所詮旦那芸に終わってしまうかもしれません。
・・・やっぱり大事なのは、基本を深く稽古してゆく、そしてその中の哲理や要求を自分のものとして内在化させてゆく、本当の意味での伝承作業をおこなってゆくしかないのだと思っています。
ふりだしに戻る、というわけですね(∩´∀`)∩
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