2016年10月15日土曜日

飴と鞭、使うのは誰?

鍛錬は我慢・・・みたいな考え方がある。
理屈を超えるまで我慢する・・・
それはそうかも知れない。
でもそういった無理は心身を害する。


人生はフリーダム・・・みたいに考える人も多い。
道理を無視して生きる。
それにも共鳴はできる。
でもそれもいつまでも続けられるものでは無い。


理の無い所に結果は生まれない。
もしそれが功を奏したのなら、
そこには理外の理があったということ。
べつに我慢や自由を謳歌したからというわけではない。


我慢は我が慢心するという意味。
我を張って一人っきりで満足している。
鍛錬とは違うものだ。
空手の村上勝美師匠も言う。
無理のない無理積み重ね・・・と。


自由も我儘の追求ではない。
もしすべてのの欲求が我が儘に成就したとしても
そこに自由はないのだ。
不自由なこの心身を操作することでこそ
本当の自在を得ることができる。


そういう意味では大成した人は
須らく自分に厳しい一方で
自分の甘やかし方を知っている
飴を使うのも鞭を振るうのも
そこには意志が必要で
その中心があるからこそ
飴と鞭を適度に使い分けることができる。


鞭を食らい過ぎれば廃人かマゾヒストになる
飴を食らい過ぎれば心身の成人病まっしぐらだ。
大事なのはやはりそれらを統括する意志なのだ。
固くもなく柔らかすぎもせず
自分という器にぴったりの中心を
飴と鞭のさ中に探るのだ。

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