人と人の縁というのは、努力しないと続かない時もある。
そうかと思うと、何ら力を加えなくても空気のように始まり、それこそ空気のように長く続く付き合いになるというのもある。
私と姜氏門、鄒淑嫺師父は、双方が相当に努力してきた。
そうかと思うと、何ら力を加えなくても空気のように始まり、それこそ空気のように長く続く付き合いになるというのもある。
私と姜氏門、鄒淑嫺師父は、双方が相当に努力してきた。
穏やかな物腰に激しい情熱を隠した、綿裡蔵針そのものの師父だから、単純パッション馬鹿の若造だった僕からは、想像もできないような心の葛藤があったのだと思う。
それは時に、というか、付き合いが深くなるに従っては頻繁に発露されたのだが、その真の意味とかニュアンス、その後ろ側にある師父の人生や時々の精神状態まで見えて、いろいろと腑に落ちたのは、それこそ10年を数えて徐々に、僕もいろいろと経験をして、それなりの苦労もしてみて分かったことが多い。
師父からすれば、なんとも大変なお荷物を背負ってしまった・・・という一面もあったろう。
もちろん僕にしても、師父じゃなかったら、とっくにお付き合いゴメン被る!といって逃げてしまいたいような場面も沢山あった。
師父の中に何を見て、越え難きを越えられたのだろうか、技・・・は勿論なのだけれど、もう師父くらいになると、武術=その人生なので、やはり師父という人の表も裏も知って、それでも離れがたく、好きだといえる魅力が、その存在の裡にあったのだと思う。
それでも20年、よく一途について行けたものだと自分でも感心しているのだ。師父にしたってよくもまあ、全く性格も、言語体系ですら違った見ず知らずの若造に、自分の一番大切にしている宝をあげてしまおうと思われたものだ・・・これを縁と言わずして何を縁といえるのだろう?と、そう思うのだ。
そのような師父との丁々発止の触れ合いは、僕の青春時代すべてにわたって続き、僕が40歳、師父は90歳をかぞえて師爺の銅像引き継ぎという形でようやく安定したものに変化してきた。
そんな折に今の柔術の師、順心斎老先生に出会ったのだけれど、こちらはもう、事前におぜん立てが整っていたかのように、あれよあれよという間にご縁が出来上がってしまっている。これはもう、出会ったときから先生の流儀は継承する人が居られなかったし、僕はその存在を知った時から「この人は自分の師になるひとだ」という予感があった。
時が満ちるまでは2年間掛かったのだが、いろいろと時節が巡り、始まるときは思いもかけずにスーッと教傳モードに入ってしまった。
これもまた不思議な縁といえる。でも、ヒーヒー云いながら築いた鄒師父とのご縁がなければ、順心斎先生とも絶対に師弟関係にはなれなかっただろう。
技術的に見ても、僕の中に姜氏の錬躰が無かったとしたなら、今の諏訪神傳の技は手に余っていただろうし、以前の浅い人間観ではとても太刀打ちできないほど、先生の思想は重厚で説得力がある。
だから、二つの縁は、連環しているともいえる。
そういう目で見てゆくと、祖母に始まり、父、蟷螂拳の根本老師、開極拳の謝老師、和道流の長谷部師範、欄手門の尹老師、六合蟷螂の林老師、形意の趙玉祥老師、八天無双流の南里師範、そして小林流の村上勝美師匠・・・と、この人無くては今の自分になり得なかっただろう、という「有難き」ご縁の連鎖に導かれての今なのだということがよくわかる。
武縁、それも師傳だけでもこんなに沢山の縁の輪に囲まれている私がいる。
武友も含めたら、それはこれでは済まないくらいに、多士済々、いろいろな刺激を多方面から頂き、自分の輪郭が際立っているのである。
ここまでの、縁のあや模様を歩みながら振り返れば、いつでもなりふりとは無縁の自分がいたのに気が付いた。
これからも多分そうであるのだろう。今であっている人、これから出会う人、モノ、コト・・・格好をつける余裕など全くない。それだけ僕は待望して生きているのかもしれない。
いい年こいて・・・(*´ω`)てへぺろ。
☆ちなみに写真は師父86歳、3度目の来日の時の写真。偶然にも今自分が暮らしている地域を旅したときのスナップ・・・これもまた不思議な縁です(*´ω`)
こん時ゃ肉も酒も飲み食いしまくってました(^^)/ぷりぷりでしょ?
それは時に、というか、付き合いが深くなるに従っては頻繁に発露されたのだが、その真の意味とかニュアンス、その後ろ側にある師父の人生や時々の精神状態まで見えて、いろいろと腑に落ちたのは、それこそ10年を数えて徐々に、僕もいろいろと経験をして、それなりの苦労もしてみて分かったことが多い。
師父からすれば、なんとも大変なお荷物を背負ってしまった・・・という一面もあったろう。
もちろん僕にしても、師父じゃなかったら、とっくにお付き合いゴメン被る!といって逃げてしまいたいような場面も沢山あった。
師父の中に何を見て、越え難きを越えられたのだろうか、技・・・は勿論なのだけれど、もう師父くらいになると、武術=その人生なので、やはり師父という人の表も裏も知って、それでも離れがたく、好きだといえる魅力が、その存在の裡にあったのだと思う。
それでも20年、よく一途について行けたものだと自分でも感心しているのだ。師父にしたってよくもまあ、全く性格も、言語体系ですら違った見ず知らずの若造に、自分の一番大切にしている宝をあげてしまおうと思われたものだ・・・これを縁と言わずして何を縁といえるのだろう?と、そう思うのだ。
そのような師父との丁々発止の触れ合いは、僕の青春時代すべてにわたって続き、僕が40歳、師父は90歳をかぞえて師爺の銅像引き継ぎという形でようやく安定したものに変化してきた。
そんな折に今の柔術の師、順心斎老先生に出会ったのだけれど、こちらはもう、事前におぜん立てが整っていたかのように、あれよあれよという間にご縁が出来上がってしまっている。これはもう、出会ったときから先生の流儀は継承する人が居られなかったし、僕はその存在を知った時から「この人は自分の師になるひとだ」という予感があった。
時が満ちるまでは2年間掛かったのだが、いろいろと時節が巡り、始まるときは思いもかけずにスーッと教傳モードに入ってしまった。
これもまた不思議な縁といえる。でも、ヒーヒー云いながら築いた鄒師父とのご縁がなければ、順心斎先生とも絶対に師弟関係にはなれなかっただろう。
技術的に見ても、僕の中に姜氏の錬躰が無かったとしたなら、今の諏訪神傳の技は手に余っていただろうし、以前の浅い人間観ではとても太刀打ちできないほど、先生の思想は重厚で説得力がある。
だから、二つの縁は、連環しているともいえる。
そういう目で見てゆくと、祖母に始まり、父、蟷螂拳の根本老師、開極拳の謝老師、和道流の長谷部師範、欄手門の尹老師、六合蟷螂の林老師、形意の趙玉祥老師、八天無双流の南里師範、そして小林流の村上勝美師匠・・・と、この人無くては今の自分になり得なかっただろう、という「有難き」ご縁の連鎖に導かれての今なのだということがよくわかる。
武縁、それも師傳だけでもこんなに沢山の縁の輪に囲まれている私がいる。
武友も含めたら、それはこれでは済まないくらいに、多士済々、いろいろな刺激を多方面から頂き、自分の輪郭が際立っているのである。
ここまでの、縁のあや模様を歩みながら振り返れば、いつでもなりふりとは無縁の自分がいたのに気が付いた。
これからも多分そうであるのだろう。今であっている人、これから出会う人、モノ、コト・・・格好をつける余裕など全くない。それだけ僕は待望して生きているのかもしれない。
いい年こいて・・・(*´ω`)てへぺろ。
☆ちなみに写真は師父86歳、3度目の来日の時の写真。偶然にも今自分が暮らしている地域を旅したときのスナップ・・・これもまた不思議な縁です(*´ω`)
こん時ゃ肉も酒も飲み食いしまくってました(^^)/ぷりぷりでしょ?
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