2015年11月25日水曜日

祖母と僕と武道について

今日は結構時間があるので、祖母と僕と吾妻の縁について書こうと思う。

祖母伊藤(旧姓伊与久)志よう子は、群馬の伊与久の谷から中央法律学校(現中央大)進学のために出てきた、吾妻衆伊与久党の末を自任する紋三郎忠照と、八幡小町と謳われた椎橋はなの五女で、はなは志よう子を産んですぐに産後の肥立ちが悪く早逝したため、その母(自分からすると母方の祖母)ちかの養女となり、椎橋姓を名乗ることになった。

椎橋家は石炭販売で財を成した素封家で、八幡町会議員の中蔵(志よう子の祖父)初代市市議会員の三喜雄(志よう子の叔父、のちに義兄)と、気骨のある地方代議士を輩出した。

中蔵は葛飾八幡宮の氏子で世話人も務めた敬神家だった。成田街道拡張に伴う都市計画が持ちあがった時、地元の崇敬篤い禁足地・八幡の藪しらずに斧鉞が入るというのを聞き、賛成派議員の家に抜身の刀を持って乗り込み、広間に入るや否やそれを突き立て「藪しらずを切るか儂を切るか」と迫り、開発を沙汰やみにさせたという豪傑だったそうだ。


                      (明治期の八幡の藪しらず)

三喜雄もまた文武を善くし、剣術や剣舞にも造詣が深かった。広い敷地には洋館を建て、自らもチェロを弾き、志よう子にバイオリンやオルガンを弾かせ、今でいうファミリーコンサートを開くようなモダンな一面も持ち合わせていた。

志よう子は、そのような恵まれた環境で、歌舞音曲、詩歌管弦、書道、茶道、華道、香道、礼法、着付け、英語にも堪能だったようだ。武道は弓、馬、剣、薙刀、手裏剣、躰術、古式泳法などを、生来のセンスでスイスイと習得していったという。

(加筆:大多喜藩の上級藩士だった方からも手裏剣と薙刀、剣を学んでいたようです。この方からは主に小柄の投げ方や、殿中における奥方の決戦心得、襷捌きや鉢巻きに手裏剣を差して相手を撃ちとることなどが伝えられたようです。)

特に武術には天性があったらしく、薙刀や泳法では大会で好成績を残したし、手裏剣は大人も舌を巻くほどの上手だった。後に夫になる熊本出身の陸軍将校、日月流伝承者の伊藤禎三とは出会ったときから何度も試合をし、武技において敵わないと思ったことが交際の引き金になったとか。
こんな華々しいエピソードに満ちた祖母の生活も、先の太平洋戦争で最愛の背の君が戦死すると状況は一変する。

   (前列左端、伊与久紋三郎、右端、椎橋ちか、後列左から3人目、伊与久志よう子)

一面の焼け野原の中、それまで好意的だった人たちから冷遇され、伝来の遺物や武具もわずかな米と引き換えに四散し、人生の辛酸を味わい尽くした。そのような慣れない貧窮の生活を扶けたものは、若き日に身に着けた芸の数々だったと聞いている。昼間は料亭の仲居をしつつ晩は芸者たちの着付け、三味線の師匠も引き受け、時間を縫ってダンスホールの講師として活躍したりしたそうだ。幼い母たち姉妹は夜も遅くなって帰る祖母を、眠い目をこすりながら待っていた記憶があると言っていた。


共働きだった両親の下、僕が鍵っ子にならなかったのは、この祖母とその姉夫婦(伊与久を継ぎ、母が養女に入った)が一緒にいてくれたお蔭だった。物事には両面があるもので、寂しくなかった代わりに、僕に別の試練をもたらした。

伊与久を継いだ義理の祖父は過酷な戦争経験から酒に溺れ、アルコール中毒になり、家庭はこの祖父の狂乱と暴力に堪えなければならなかった。この祖父も関東軍でも有数の銃剣の使い手で、若い日はボクシングでもちょっと名の知れた人だったので、ひとたび出刃包丁なんか持って暴れた日には、機動隊出身の警官がジュラルミンの盾を持って二,三人がかりでないと取り押さえられないくらい大変だった。

 唯一これを制止できるのが祖父の溺愛する僕だったので、自然僕は幼くして防波堤のような立場を自覚せざるを得なかった。

起床ラッパの歌とともに起床し、完封摩擦をして、夕は夕で、晩酌につき合いながら少年兵の歌に涙し、関東健男児の歌を聞きながら眠りにつくと、祖父は機嫌が良かった。
そんな僕を憐れんで、影に日に守ってくれたのも、また祖母の志よう子だった。

祖母は僕に遊びの一環として、変わった礼法や体術、摩利支天の法や三密加持、手裏剣、剣と棒の数手を教えてくれた。しかし、ここで白状するが、当時の僕は日本の武術や文化に対して、言いようもない嫌悪感を抱いていた。先の大戦の敗戦による我が家の荒廃の原因というのが、恐らく軍部の武断政治にあるというのを、幼稚な頭脳乍らに感じていたのだと思う。その代わり、そのころの僕にとっては父のやっていた空手や、テレビで大流行していたカンフー、とくにジャッキーチェンの大陸的な動きに興趣をかき立てられていたのだった。やるなら絶対コレだな!と老師様との出会いを念じながら・・・選ぶものが結局は武道、というところが面白いのだけれど。それを感じてか、祖母も必要以上に僕にそれを強いることもなかった。

そう言うわけで、僕は祖母が手裏剣などを嗜んでいるということは、いかに親しい間柄でも秘密にしていた。実際のところ古臭い、○○流などと整備されていない、何とも言いようのないものの断片を「武道」だといったところで、それも手裏剣なんて・・・言えば絶対仲間外れにされる。屈託のない育ち方をしていたわけではないので、友人たちも特に聞いてくることもなかったのを良いことに、自分は日本武道なんて黴臭くて大嫌いだ、とのたまって憚ることがなかった。今思い返すと仕方ないとはいえ祖母や先祖には悪いことをしていたのかもしれない。

高校生になって中国武術を学び始めた時、色々な武術仲間ができた。その中の一人がS井君で、彼のひいおじいちゃんがやはり幕府に仕えた忍者だったという(公儀隠密か?)。 
そのころ僕は先祖が吾妻の地侍ということと祖母の手裏剣が結びつかなかったので、まったくもってNINJYAの彼を笑いものにしていた覚えがある。まあ、お互いに悪友だったわけで、最初にナイフで切り付けられたのも彼からだったのだから、別に済まないとは思っていないのだが、彼の忍者戦法も結構実戦には役に立っていたようだ。機会があればまた会って話をしてみたいものだ。

しかし高校在学時から、何かにとりつかれた様に各地の山岳霊場を回るようになり、有名無名の道者と誼を得、教えを受けたり、九度山、高野、熊野、秩父、東北などを跋渉することが心の支えになっていた二〇代は、今に至る準備期間だったのかもしれない。
今取り組んでいる忍者の歴史を俯瞰するうえで、熊野修験ー甲賀ー烏という先を繋いでゆく発想の元となったのが、この頃の山岳修行の日々だったというのはなんだか不思議だ。

あのころの訳もわからない衝動がなかったら、日本の歴史の多重性や、民衆の記憶の重要性などには目が向かなかったのではないか。そしてわが伊与久一党の歴史というものも、顧みられることもなかったのではなかったか。


                 (伊与久の郷にある本宗家の奥津城)

祖母という存在は、僕の人生最初の師匠とも言えるし、母親のような、誰よりも親しい人とも言えた。
上海留学から帰って、東京でアパート暮らしをしていたころ、どうしても嫌だった携帯電話を、当時付き合っていた彼女に言われ、素直に購入、加入した。

そして初めての着信は「祖母が危篤。すぐ帰ってきなさい」との母の悲痛な声。桜の花びらが春の嵐に舞い散る中、祖母は先祖たちの住む山々へと帰っていった。
祖母の訃報を聞いた時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。葬儀の準備に慌てふためく家族の声を聞きながら、歩くこともできずに放心していたことが忘れられない。

2015年11月19日木曜日

易不易

僕が教えている会の「特徴」がここに来て、よく見えるようになった。

それは「ブランド」で入会する人が、限りなく皆無に近い・・・!ということ。

10年20年と継続する人の中で、僕が誰々先生の弟子だ、とか、誰々の伝承を云々・・・みたいなことに詳しい人は、たぶんほとんど居られない。これは意外だった。

僕自身は、師傳に拘りを持ってやってきたし、自分の門派は有名ではないけれど歴史と格式のある良いものだという認識があるのだけど、長期で稽古されている方の中には、いまだ「姜氏門」を「しょうしもん」と読んだり、甚だしくは先生の先生って、シュー先生でしたっけ?そういえば女の人だったんでしたっけ?と言ったことすらある・・・(;´Д`)pヲイッ!!

ことあるごとに師父の話や武林の故事を紹介しているにもかかわらず・・・相当天然な人が集いに集っているのだ。

そして人の思いはとかくその通りにはならない、ということを頻繁に経験する。これは少し寂しいような気がしてしまう時もあるが、よく考えれば大変面白いことでもある。


~流なら~流、○○門ならそれで、ブランドで集った場合、そのブランドイメージが一つの指標となる傾向がある。
そこにいる指導者がブランドのイメージを表現しているうちは、生徒さんはついて来やすい。
しかしそのイメージとかけ離れてゆくと、生徒さんは離れる。
なぜなら、それはイメージといったふわふわしたものを媒介としてつながっているから。

でも実はそのイメージと言うのは多くの場合門外漢が、本の知識や伝聞、推測、そして多分のロマンを以てレッテルし、陳列されたもんがよくわからないうちに受け入れられてしまったモノなわけだから、往々にして実際とは違ったりすることがある。

だから世間で困っている先生方は、じつは結構おられるのではないかと推察している。先生のやることに、いちいちものの本ではこうでこうだ、とか茶々を入れられてはたまらないだろうしね。

伝承として伝わってきたものには、意外な切り口が多く、単純に外部からうかがい知れないような事柄も少なくない。
一定以上の修練を経て、はじめて師の示す本当の意味が理解できたりすることも一度や二度では利かない。


そういう意味では、うちの会の人はつき合いやすいのかも知れません。
姜氏門はこうでこうだ、とか、内家拳は云々とか、そもそもはじめっから余計な知識がない人が集まっているのだから。


僕がせっかく理解できた腕の角度は●●拳ではこうだけれど私たちの工夫はこうであるとか、示したところで「なるほど!」とは言うものの、なんだか他人事のよう・・・(; ・`д・´)このオタク的な喜びを共有して~なんて思う時もしばしば。

そもそもこだわりが少ない、というか関心が薄い・・・もうちょっと拘ってほしいと心配してしまう清々しいほどのアバウトさなのです( ;∀;)

うちの会で中々上達してきた方に、もっと拘るように!僕の全部を真似する気持ちが大事でしょう?と言ってみたら、こんな答えが返ってきた。

「お言葉ですが先生、私たちは生きてゆくうえで役に立つことをしたいので先生の教えを受けているのです。これからの人生、素手で勝負なんていうことは中々ないでしょう。私の関心は先生の仰っていた奇正相生にあります。腕の角度よりも今はあの身法を自分のものにしたいのです。」と、良い顔でにっこりと語るのだ。

・・・僕が自分の師父にそんなことを言えるかというと、口が裂けても出ようのない爆弾発言なのだが、困ったことに、僕はこれはこれで堂々とした立派な見解だと思ってしまう。
つまり、今の時代を生活者として生き遂げるための必要な躰術として、これを捉えてくれているということなんだから、十分に伝統を「活かす」心がありますよ!という表明と捉えられなくもないのだから。

むしろ一介の(と言ったら失礼だけれど)主婦が、心身に対してこのように明確な意識をもって対峙するようになった、というところが嬉しく、頼もしくもあるわけです。(もちろん拝師を念頭に置く場合はちゃんとしていただきますよ。でも自分の場合まだ早いと思っています。)

人はそれぞれ、会のありようも、それこそ教場のメンバーによっても色々です。
僕のようにマニアックに突っ込んでいく人も否定はできない。(というか居ると嬉しい)でも多くの生活者は、効率の良い動き方や、壊れにくい心身のありかた、生活のメリハリとしての良き運動習慣をこそ求めている。

そこに図らずもコミットしてしまい、師範を仰せつかった僕としては、彼らに添い乍ら躰術を楽しんで行く道を歩もうと覚悟しているわけです。
どんな形であれ、自分に伝えられ研究してきた技術が、縁のある人たちと共有でき、それが心身を自覚的に統御する方向に向かわせているのだから、まったく無価値の行為だとは考えられないわけです。

武術家として物足りない、せっかく伝統の素晴らしい師傳が云々と忝くも心配してくださる方もおられるかもしれませんが、私の示され、志向する道と言うのは独自のものです。これは私にしかできないものだし、私以外の方からすれば何の価値も見いだせない石ころの様なものなのかもしれません。

でも、それでいいのではないでしょうか。人間って往々にしてそういうものなのだと思います。

2015年11月4日水曜日

第2回、岩櫃城忍びの乱に参陣して参りました!


岩櫃城忍びの乱、楽しんでまいりました!

主催の斉藤様をはじめ、スタッフの皆様、出演者の皆様、本当にお疲れ様でした。
初めてで不慣れであるにもかかわらず、不自由のないように頑張ってくださった皆様に御礼申し上げます。
 
斉藤様、祢津様、剣持様、富沢様、渡様、そして割田様!!皆さん吾妻武士のご子孫にあたる方がたです。 皆様の寛大で、献身的な郷土愛のお蔭で、何百年もの時を超えてわが伊与久党も、岩櫃再入城を果たすことができました!!

岩櫃の謎を追い続ける、吾妻の語り部「あざみの会」の皆様と。
左の方が富沢さん、私のお隣の和服の紳士が根津さん。皆さまには資料を提供いただいたり、貴重なお話をいろいろとご教示頂きました!

そして、今回やっとお会いすることができた、悲運の吾妻忍者棟梁、割田下総の末裔、割田さん。割田さんの家でも、子供のころは手裏剣を御爺様がされていたとのこと!打ち方や構えまで我が家の伝承とほぼ同一でした(*'ω'*)!
こぶし鍛えや、軽身、飛び六方のお話など、まったく・・・ついこの前までできる方が居られたのですね!感動いたしました。
私の拙い体轉や、飛び抜き、猿渡などをご披露したところ、「うちのお爺さんも似たようなことをやっていた」とのこと!!
これからも吾妻衆に伝えられたと思われる「甲陽」の技の失われた片鱗を、寄せ集めてまいりたいと思う所存で御座候!!

この吾妻領の旧家の皆さんは、真田家の忍者、祢津潜龍斎亘月や、吾妻衆富沢氏、割田下総のご縁者など、今に至るまで後裔も数多く、そういった方たちが真田や忍者の研究に本腰を入れてくださるというのは本当に心強いことです。
皆さまのお蔭で、遠祖鴻業の地にて「吾妻衆」と「真田忍軍」についての講演をすることができました!心より感謝を申し上げます。
来年の真田丸ブームに乗って、月刊誌上にて拙稿「幻の真田忍軍」を紹介出来たらなあと思い、担当の方と目下調整中です。

忍びの乱では、本当にいろいろな方との出会いがありました。
東吾妻を代表するお菓子処「藤井屋」の上原さん、上原さんのお宅には貴重な「影流目録」や各種伝書が伝わったいます。
そして上原さんのお友達の、鉄砲鍛冶で一世を風靡した名人国友の末裔、国友さん、そして甲冑大好きお兄さんもご一緒に・・・パチリ!
皆さんとお会いできてとても嬉しかったです!
 また、可愛い忍タマたちもたくさん来てくれました(^^)/〜★

ちなみに最後の一枚は、甲冑集団「式」と、舞妖衆巫雷の皆さんと、ポーズ!!講演と重なって、皆さんのステージがみれなかったのが残念(-_-)
甦れ!真田吾妻忍軍!!