今日は結構時間があるので、祖母と僕と吾妻の縁について書こうと思う。
祖母伊藤(旧姓伊与久)志よう子は、群馬の伊与久の谷から中央法律学校(現中央大)進学のために出てきた、吾妻衆伊与久党の末を自任する紋三郎忠照と、八幡小町と謳われた椎橋はなの五女で、はなは志よう子を産んですぐに産後の肥立ちが悪く早逝したため、その母(自分からすると母方の祖母)ちかの養女となり、椎橋姓を名乗ることになった。
椎橋家は石炭販売で財を成した素封家で、八幡町会議員の中蔵(志よう子の祖父)初代市市議会員の三喜雄(志よう子の叔父、のちに義兄)と、気骨のある地方代議士を輩出した。
中蔵は葛飾八幡宮の氏子で世話人も務めた敬神家だった。成田街道拡張に伴う都市計画が持ちあがった時、地元の崇敬篤い禁足地・八幡の藪しらずに斧鉞が入るというのを聞き、賛成派議員の家に抜身の刀を持って乗り込み、広間に入るや否やそれを突き立て「藪しらずを切るか儂を切るか」と迫り、開発を沙汰やみにさせたという豪傑だったそうだ。
(明治期の八幡の藪しらず)
三喜雄もまた文武を善くし、剣術や剣舞にも造詣が深かった。広い敷地には洋館を建て、自らもチェロを弾き、志よう子にバイオリンやオルガンを弾かせ、今でいうファミリーコンサートを開くようなモダンな一面も持ち合わせていた。
志よう子は、そのような恵まれた環境で、歌舞音曲、詩歌管弦、書道、茶道、華道、香道、礼法、着付け、英語にも堪能だったようだ。武道は弓、馬、剣、薙刀、手裏剣、躰術、古式泳法などを、生来のセンスでスイスイと習得していったという。
(加筆:大多喜藩の上級藩士だった方からも手裏剣と薙刀、剣を学んでいたようです。この方からは主に小柄の投げ方や、殿中における奥方の決戦心得、襷捌きや鉢巻きに手裏剣を差して相手を撃ちとることなどが伝えられたようです。)
特に武術には天性があったらしく、薙刀や泳法では大会で好成績を残したし、手裏剣は大人も舌を巻くほどの上手だった。後に夫になる熊本出身の陸軍将校、日月流伝承者の伊藤禎三とは出会ったときから何度も試合をし、武技において敵わないと思ったことが交際の引き金になったとか。
こんな華々しいエピソードに満ちた祖母の生活も、先の太平洋戦争で最愛の背の君が戦死すると状況は一変する。
(前列左端、伊与久紋三郎、右端、椎橋ちか、後列左から3人目、伊与久志よう子)
一面の焼け野原の中、それまで好意的だった人たちから冷遇され、伝来の遺物や武具もわずかな米と引き換えに四散し、人生の辛酸を味わい尽くした。そのような慣れない貧窮の生活を扶けたものは、若き日に身に着けた芸の数々だったと聞いている。昼間は料亭の仲居をしつつ晩は芸者たちの着付け、三味線の師匠も引き受け、時間を縫ってダンスホールの講師として活躍したりしたそうだ。幼い母たち姉妹は夜も遅くなって帰る祖母を、眠い目をこすりながら待っていた記憶があると言っていた。
共働きだった両親の下、僕が鍵っ子にならなかったのは、この祖母とその姉夫婦(伊与久を継ぎ、母が養女に入った)が一緒にいてくれたお蔭だった。物事には両面があるもので、寂しくなかった代わりに、僕に別の試練をもたらした。
伊与久を継いだ義理の祖父は過酷な戦争経験から酒に溺れ、アルコール中毒になり、家庭はこの祖父の狂乱と暴力に堪えなければならなかった。この祖父も関東軍でも有数の銃剣の使い手で、若い日はボクシングでもちょっと名の知れた人だったので、ひとたび出刃包丁なんか持って暴れた日には、機動隊出身の警官がジュラルミンの盾を持って二,三人がかりでないと取り押さえられないくらい大変だった。
唯一これを制止できるのが祖父の溺愛する僕だったので、自然僕は幼くして防波堤のような立場を自覚せざるを得なかった。
起床ラッパの歌とともに起床し、完封摩擦をして、夕は夕で、晩酌につき合いながら少年兵の歌に涙し、関東健男児の歌を聞きながら眠りにつくと、祖父は機嫌が良かった。
そんな僕を憐れんで、影に日に守ってくれたのも、また祖母の志よう子だった。
祖母は僕に遊びの一環として、変わった礼法や体術、摩利支天の法や三密加持、手裏剣、剣と棒の数手を教えてくれた。しかし、ここで白状するが、当時の僕は日本の武術や文化に対して、言いようもない嫌悪感を抱いていた。先の大戦の敗戦による我が家の荒廃の原因というのが、恐らく軍部の武断政治にあるというのを、幼稚な頭脳乍らに感じていたのだと思う。その代わり、そのころの僕にとっては父のやっていた空手や、テレビで大流行していたカンフー、とくにジャッキーチェンの大陸的な動きに興趣をかき立てられていたのだった。やるなら絶対コレだな!と老師様との出会いを念じながら・・・選ぶものが結局は武道、というところが面白いのだけれど。それを感じてか、祖母も必要以上に僕にそれを強いることもなかった。
そう言うわけで、僕は祖母が手裏剣などを嗜んでいるということは、いかに親しい間柄でも秘密にしていた。実際のところ古臭い、○○流などと整備されていない、何とも言いようのないものの断片を「武道」だといったところで、それも手裏剣なんて・・・言えば絶対仲間外れにされる。屈託のない育ち方をしていたわけではないので、友人たちも特に聞いてくることもなかったのを良いことに、自分は日本武道なんて黴臭くて大嫌いだ、とのたまって憚ることがなかった。今思い返すと仕方ないとはいえ祖母や先祖には悪いことをしていたのかもしれない。
高校生になって中国武術を学び始めた時、色々な武術仲間ができた。その中の一人がS井君で、彼のひいおじいちゃんがやはり幕府に仕えた忍者だったという(公儀隠密か?)。
そのころ僕は先祖が吾妻の地侍ということと祖母の手裏剣が結びつかなかったので、まったくもってNINJYAの彼を笑いものにしていた覚えがある。まあ、お互いに悪友だったわけで、最初にナイフで切り付けられたのも彼からだったのだから、別に済まないとは思っていないのだが、彼の忍者戦法も結構実戦には役に立っていたようだ。機会があればまた会って話をしてみたいものだ。
しかし高校在学時から、何かにとりつかれた様に各地の山岳霊場を回るようになり、有名無名の道者と誼を得、教えを受けたり、九度山、高野、熊野、秩父、東北などを跋渉することが心の支えになっていた二〇代は、今に至る準備期間だったのかもしれない。
今取り組んでいる忍者の歴史を俯瞰するうえで、熊野修験ー甲賀ー烏という先を繋いでゆく発想の元となったのが、この頃の山岳修行の日々だったというのはなんだか不思議だ。
あのころの訳もわからない衝動がなかったら、日本の歴史の多重性や、民衆の記憶の重要性などには目が向かなかったのではないか。そしてわが伊与久一党の歴史というものも、顧みられることもなかったのではなかったか。
(伊与久の郷にある本宗家の奥津城)
祖母という存在は、僕の人生最初の師匠とも言えるし、母親のような、誰よりも親しい人とも言えた。
上海留学から帰って、東京でアパート暮らしをしていたころ、どうしても嫌だった携帯電話を、当時付き合っていた彼女に言われ、素直に購入、加入した。
そして初めての着信は「祖母が危篤。すぐ帰ってきなさい」との母の悲痛な声。桜の花びらが春の嵐に舞い散る中、祖母は先祖たちの住む山々へと帰っていった。
祖母の訃報を聞いた時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。葬儀の準備に慌てふためく家族の声を聞きながら、歩くこともできずに放心していたことが忘れられない。
祖母伊藤(旧姓伊与久)志よう子は、群馬の伊与久の谷から中央法律学校(現中央大)進学のために出てきた、吾妻衆伊与久党の末を自任する紋三郎忠照と、八幡小町と謳われた椎橋はなの五女で、はなは志よう子を産んですぐに産後の肥立ちが悪く早逝したため、その母(自分からすると母方の祖母)ちかの養女となり、椎橋姓を名乗ることになった。
椎橋家は石炭販売で財を成した素封家で、八幡町会議員の中蔵(志よう子の祖父)初代市市議会員の三喜雄(志よう子の叔父、のちに義兄)と、気骨のある地方代議士を輩出した。
中蔵は葛飾八幡宮の氏子で世話人も務めた敬神家だった。成田街道拡張に伴う都市計画が持ちあがった時、地元の崇敬篤い禁足地・八幡の藪しらずに斧鉞が入るというのを聞き、賛成派議員の家に抜身の刀を持って乗り込み、広間に入るや否やそれを突き立て「藪しらずを切るか儂を切るか」と迫り、開発を沙汰やみにさせたという豪傑だったそうだ。
(明治期の八幡の藪しらず)
三喜雄もまた文武を善くし、剣術や剣舞にも造詣が深かった。広い敷地には洋館を建て、自らもチェロを弾き、志よう子にバイオリンやオルガンを弾かせ、今でいうファミリーコンサートを開くようなモダンな一面も持ち合わせていた。
志よう子は、そのような恵まれた環境で、歌舞音曲、詩歌管弦、書道、茶道、華道、香道、礼法、着付け、英語にも堪能だったようだ。武道は弓、馬、剣、薙刀、手裏剣、躰術、古式泳法などを、生来のセンスでスイスイと習得していったという。
(加筆:大多喜藩の上級藩士だった方からも手裏剣と薙刀、剣を学んでいたようです。この方からは主に小柄の投げ方や、殿中における奥方の決戦心得、襷捌きや鉢巻きに手裏剣を差して相手を撃ちとることなどが伝えられたようです。)
特に武術には天性があったらしく、薙刀や泳法では大会で好成績を残したし、手裏剣は大人も舌を巻くほどの上手だった。後に夫になる熊本出身の陸軍将校、日月流伝承者の伊藤禎三とは出会ったときから何度も試合をし、武技において敵わないと思ったことが交際の引き金になったとか。
こんな華々しいエピソードに満ちた祖母の生活も、先の太平洋戦争で最愛の背の君が戦死すると状況は一変する。
(前列左端、伊与久紋三郎、右端、椎橋ちか、後列左から3人目、伊与久志よう子)
一面の焼け野原の中、それまで好意的だった人たちから冷遇され、伝来の遺物や武具もわずかな米と引き換えに四散し、人生の辛酸を味わい尽くした。そのような慣れない貧窮の生活を扶けたものは、若き日に身に着けた芸の数々だったと聞いている。昼間は料亭の仲居をしつつ晩は芸者たちの着付け、三味線の師匠も引き受け、時間を縫ってダンスホールの講師として活躍したりしたそうだ。幼い母たち姉妹は夜も遅くなって帰る祖母を、眠い目をこすりながら待っていた記憶があると言っていた。
共働きだった両親の下、僕が鍵っ子にならなかったのは、この祖母とその姉夫婦(伊与久を継ぎ、母が養女に入った)が一緒にいてくれたお蔭だった。物事には両面があるもので、寂しくなかった代わりに、僕に別の試練をもたらした。
伊与久を継いだ義理の祖父は過酷な戦争経験から酒に溺れ、アルコール中毒になり、家庭はこの祖父の狂乱と暴力に堪えなければならなかった。この祖父も関東軍でも有数の銃剣の使い手で、若い日はボクシングでもちょっと名の知れた人だったので、ひとたび出刃包丁なんか持って暴れた日には、機動隊出身の警官がジュラルミンの盾を持って二,三人がかりでないと取り押さえられないくらい大変だった。
唯一これを制止できるのが祖父の溺愛する僕だったので、自然僕は幼くして防波堤のような立場を自覚せざるを得なかった。
起床ラッパの歌とともに起床し、完封摩擦をして、夕は夕で、晩酌につき合いながら少年兵の歌に涙し、関東健男児の歌を聞きながら眠りにつくと、祖父は機嫌が良かった。
そんな僕を憐れんで、影に日に守ってくれたのも、また祖母の志よう子だった。
祖母は僕に遊びの一環として、変わった礼法や体術、摩利支天の法や三密加持、手裏剣、剣と棒の数手を教えてくれた。しかし、ここで白状するが、当時の僕は日本の武術や文化に対して、言いようもない嫌悪感を抱いていた。先の大戦の敗戦による我が家の荒廃の原因というのが、恐らく軍部の武断政治にあるというのを、幼稚な頭脳乍らに感じていたのだと思う。その代わり、そのころの僕にとっては父のやっていた空手や、テレビで大流行していたカンフー、とくにジャッキーチェンの大陸的な動きに興趣をかき立てられていたのだった。やるなら絶対コレだな!と老師様との出会いを念じながら・・・選ぶものが結局は武道、というところが面白いのだけれど。それを感じてか、祖母も必要以上に僕にそれを強いることもなかった。
そう言うわけで、僕は祖母が手裏剣などを嗜んでいるということは、いかに親しい間柄でも秘密にしていた。実際のところ古臭い、○○流などと整備されていない、何とも言いようのないものの断片を「武道」だといったところで、それも手裏剣なんて・・・言えば絶対仲間外れにされる。屈託のない育ち方をしていたわけではないので、友人たちも特に聞いてくることもなかったのを良いことに、自分は日本武道なんて黴臭くて大嫌いだ、とのたまって憚ることがなかった。今思い返すと仕方ないとはいえ祖母や先祖には悪いことをしていたのかもしれない。
高校生になって中国武術を学び始めた時、色々な武術仲間ができた。その中の一人がS井君で、彼のひいおじいちゃんがやはり幕府に仕えた忍者だったという(公儀隠密か?)。
そのころ僕は先祖が吾妻の地侍ということと祖母の手裏剣が結びつかなかったので、まったくもってNINJYAの彼を笑いものにしていた覚えがある。まあ、お互いに悪友だったわけで、最初にナイフで切り付けられたのも彼からだったのだから、別に済まないとは思っていないのだが、彼の忍者戦法も結構実戦には役に立っていたようだ。機会があればまた会って話をしてみたいものだ。
しかし高校在学時から、何かにとりつかれた様に各地の山岳霊場を回るようになり、有名無名の道者と誼を得、教えを受けたり、九度山、高野、熊野、秩父、東北などを跋渉することが心の支えになっていた二〇代は、今に至る準備期間だったのかもしれない。
今取り組んでいる忍者の歴史を俯瞰するうえで、熊野修験ー甲賀ー烏という先を繋いでゆく発想の元となったのが、この頃の山岳修行の日々だったというのはなんだか不思議だ。
あのころの訳もわからない衝動がなかったら、日本の歴史の多重性や、民衆の記憶の重要性などには目が向かなかったのではないか。そしてわが伊与久一党の歴史というものも、顧みられることもなかったのではなかったか。
(伊与久の郷にある本宗家の奥津城)
祖母という存在は、僕の人生最初の師匠とも言えるし、母親のような、誰よりも親しい人とも言えた。
上海留学から帰って、東京でアパート暮らしをしていたころ、どうしても嫌だった携帯電話を、当時付き合っていた彼女に言われ、素直に購入、加入した。
そして初めての着信は「祖母が危篤。すぐ帰ってきなさい」との母の悲痛な声。桜の花びらが春の嵐に舞い散る中、祖母は先祖たちの住む山々へと帰っていった。
祖母の訃報を聞いた時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。葬儀の準備に慌てふためく家族の声を聞きながら、歩くこともできずに放心していたことが忘れられない。
0 件のコメント:
コメントを投稿