先日、長年稽古している生徒さんを嗜める場面がありました。
同じ間違いを繰り返してしまい、「すいません」を連呼して恐縮してしまう彼女。
引っ込んだ眼の光が、再び出てくる為には、彼女自身の、発想の転換が必要だと思いました。
...
伊「あのね、すいません。では済まないような深刻な場面を想定して、訓練していたとして、失敗したなら、誰に向かって済まなく思うべきなのかな??」
徒「・・・・」
伊「それは、そこで死んじゃうかもしれない自分に対してであって、漫画じゃないんだから『師匠・・・済みません・・・未熟でした』なんっつって死ぬわけないでしょ(笑)さすらいの武芸者ならまだしも」
徒「そうですが・・・」
伊「たとえば今日一日(すいません)って何回云いましたか?たぶん30回は言ってると思うよ。そんなに恐縮されたら教えてるこっちも、道場の雰囲気も(こちらこそすいません)になっちゃう。」
徒「では、どういったらいいのですか?」
伊「ぼくは(すいません)の代わりに(有難うございます)が良いと思いますよ。自分の不足を指摘してくれてるんだし、30回(ありがとう)を言っててごらんよ、自然と道場の雰囲気まで良くなってくると思わない?」
そこで彼女の顔が明るくなるのが解りました。
戦後の学校教育では平均到達地点を、誰でもできるところに引き下げてゆく(平等化)が奨められてきたように思えます。
だからそのラインを越えられない時は(くやしい)というよりも〈面目ない)となってしまいがちなのではないでしょうか。
先生もその機で教えますから(こんなことも解らんのか~!)と、どうしてもなってしまう。
武術は命を守る、という前提で行っています。
はじめの一歩から、基準の設定が違い、求められる認識や受け取り方が違います。
知っていたから命が守れた、という技術を学んでいるわけですから(ありがとう)が相応しいと、私は思います。
先生がぶれていないのだったならば、生徒さんはそれなりに変わってくるだろうし、変わらなければ、残念ながらその場の強度にマッチしなかった、ということになる。
でも、そんなだけでは冷たい関係になっちゃうのも嫌なので、生徒さんの認識を口八丁手八丁、崩していきたく思っています。
(ただ、(ありがとう)を言うくらいなら(すいません)といった方が楽、という人も、増えてきている気はします。哀しいことではありますね。)
徒「・・・・」
伊「それは、そこで死んじゃうかもしれない自分に対してであって、漫画じゃないんだから『師匠・・・済みません・・・未熟でした』なんっつって死ぬわけないでしょ(笑)さすらいの武芸者ならまだしも」
徒「そうですが・・・」
伊「たとえば今日一日(すいません)って何回云いましたか?たぶん30回は言ってると思うよ。そんなに恐縮されたら教えてるこっちも、道場の雰囲気も(こちらこそすいません)になっちゃう。」
徒「では、どういったらいいのですか?」
伊「ぼくは(すいません)の代わりに(有難うございます)が良いと思いますよ。自分の不足を指摘してくれてるんだし、30回(ありがとう)を言っててごらんよ、自然と道場の雰囲気まで良くなってくると思わない?」
そこで彼女の顔が明るくなるのが解りました。
戦後の学校教育では平均到達地点を、誰でもできるところに引き下げてゆく(平等化)が奨められてきたように思えます。
だからそのラインを越えられない時は(くやしい)というよりも〈面目ない)となってしまいがちなのではないでしょうか。
先生もその機で教えますから(こんなことも解らんのか~!)と、どうしてもなってしまう。
武術は命を守る、という前提で行っています。
はじめの一歩から、基準の設定が違い、求められる認識や受け取り方が違います。
知っていたから命が守れた、という技術を学んでいるわけですから(ありがとう)が相応しいと、私は思います。
先生がぶれていないのだったならば、生徒さんはそれなりに変わってくるだろうし、変わらなければ、残念ながらその場の強度にマッチしなかった、ということになる。
でも、そんなだけでは冷たい関係になっちゃうのも嫌なので、生徒さんの認識を口八丁手八丁、崩していきたく思っています。
(ただ、(ありがとう)を言うくらいなら(すいません)といった方が楽、という人も、増えてきている気はします。哀しいことではありますね。)
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