2016年1月31日日曜日

進む心なくして進むなり

八千代の稽古場は中世の山城だったらしく、小高い丘の上の飯綱神社裏手にある。
周囲3百メートルくらいの土手の上には、桜並木の遊歩道が円形の広々とした草地を囲んでいる。暖かい季節は子供の声が絶えない市民憩いの森。関東の四季の風情も懐かしい、気持ちのよい所だ。


もう此処での稽古会も長いのだが、人数は全く増えない。長野に引っ越すこともあり、何度か閉会も考えたが、この場所と、寒暑を共にした門人さんたちへの思い入れも強いので、辞めるに辞められず、なんと十年を数えた。

この稽古会の特徴と言えば、もともと合気道や柔術をやった人が多かったので、立関節や木刀稽古などを取り入れたこと。お陰で今の吾妻流に繋がって行く体術の総括を行うことができた。

 一見無駄なことや、遠回りに見えることのなかに次のステージへの布石が隠されていたりする。そんなことはその渦中では思いも依らないことなのだけれど、その時々に心の赴くようにしてきた結果、後で思えば・・・みたいなことは少なくない。

今日の稽古は、先週から続いて串勁の養成。左右に踏みかえながら相手の陰陽を引き出す。それには呼び水が必要だ。これを陰中の陽、陽中の陰という。


 陰陽を明らかにするというのは、どちらかを浮かしてどちらかを下すというような、表面的、観念的なことではない。右が実になった分、左は虚になると言う事は、ワンネスと言う事の説明に他ならない。二進法の世界ではなく、絶え間ないグラディエーションを、刻々マインドが認識できるのか、という限りのない世界観を示しているのだ。だからこそ稽古の行く先もまた限りのないものになってくる。

陰陽転換を見つめながら、公園の外周をまわると、自分が動いている感覚は失せ、景色が勝手に後ろへ流れてゆく。あるのは天と地と、そのさ中で虹のように、陰陽虚実変転する自分が足踏みしているのみ。絵巻の中を歩むような夢心地で、気が付けば元の場所に戻っていた。

稽古した手は万波揺舟、丹鶴迎風。旋腕開合して陰陽転換を画する。
応用としては吾妻流の入身投げと小手巻投げを草地に出て行う。套路と内功で培った功を、柔術の技を掛け合うことで確認するという独特のスタイルは、この飯綱神社の公園から自然発生的に出てきた。

そもそも飯綱権現様は神仏合一の尊形。修験の本尊に見守られながら、日本ー中国の技を綾に織りつつ稽古は続く・・・

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