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2016年10月15日土曜日

飴と鞭、使うのは誰?

鍛錬は我慢・・・みたいな考え方がある。
理屈を超えるまで我慢する・・・
それはそうかも知れない。
でもそういった無理は心身を害する。


人生はフリーダム・・・みたいに考える人も多い。
道理を無視して生きる。
それにも共鳴はできる。
でもそれもいつまでも続けられるものでは無い。


理の無い所に結果は生まれない。
もしそれが功を奏したのなら、
そこには理外の理があったということ。
べつに我慢や自由を謳歌したからというわけではない。


我慢は我が慢心するという意味。
我を張って一人っきりで満足している。
鍛錬とは違うものだ。
空手の村上勝美師匠も言う。
無理のない無理積み重ね・・・と。


自由も我儘の追求ではない。
もしすべてのの欲求が我が儘に成就したとしても
そこに自由はないのだ。
不自由なこの心身を操作することでこそ
本当の自在を得ることができる。


そういう意味では大成した人は
須らく自分に厳しい一方で
自分の甘やかし方を知っている
飴を使うのも鞭を振るうのも
そこには意志が必要で
その中心があるからこそ
飴と鞭を適度に使い分けることができる。


鞭を食らい過ぎれば廃人かマゾヒストになる
飴を食らい過ぎれば心身の成人病まっしぐらだ。
大事なのはやはりそれらを統括する意志なのだ。
固くもなく柔らかすぎもせず
自分という器にぴったりの中心を
飴と鞭のさ中に探るのだ。

2016年8月16日火曜日

済みません と 有難う

先日、長年稽古している生徒さんを嗜める場面がありました。

同じ間違いを繰り返してしまい、「すいません」を連呼して恐縮してしまう彼女。
引っ込んだ眼の光が、再び出てくる為には、彼女自身の、発想の転換が必要だと思いました。
...

伊「あのね、すいません。では済まないような深刻な場面を想定して、訓練していたとして、失敗したなら、誰に向かって済まなく思うべきなのかな??」

徒「・・・・」

伊「それは、そこで死んじゃうかもしれない自分に対してであって、漫画じゃないんだから『師匠・・・済みません・・・未熟でした』なんっつって死ぬわけないでしょ(笑)さすらいの武芸者ならまだしも」

徒「そうですが・・・」

伊「たとえば今日一日(すいません)って何回云いましたか?たぶん30回は言ってると思うよ。そんなに恐縮されたら教えてるこっちも、道場の雰囲気も(こちらこそすいません)になっちゃう。」

徒「では、どういったらいいのですか?」

伊「ぼくは(すいません)の代わりに(有難うございます)が良いと思いますよ。自分の不足を指摘してくれてるんだし、30回(ありがとう)を言っててごらんよ、自然と道場の雰囲気まで良くなってくると思わない?」

そこで彼女の顔が明るくなるのが解りました。


戦後の学校教育では平均到達地点を、誰でもできるところに引き下げてゆく(平等化)が奨められてきたように思えます。
だからそのラインを越えられない時は(くやしい)というよりも〈面目ない)となってしまいがちなのではないでしょうか。
先生もその機で教えますから(こんなことも解らんのか~!)と、どうしてもなってしまう。


武術は命を守る、という前提で行っています。

はじめの一歩から、基準の設定が違い、求められる認識や受け取り方が違います。
知っていたから命が守れた、という技術を学んでいるわけですから(ありがとう)が相応しいと、私は思います。

先生がぶれていないのだったならば、生徒さんはそれなりに変わってくるだろうし、変わらなければ、残念ながらその場の強度にマッチしなかった、ということになる。

でも、そんなだけでは冷たい関係になっちゃうのも嫌なので、生徒さんの認識を口八丁手八丁、崩していきたく思っています。

ただ、(ありがとう)を言うくらいなら(すいません)といった方が楽、という人も、増えてきている気はします。哀しいことではありますね。)

2016年6月30日木曜日

我を知り初めて他を知る蛙の子 それも又善しYES WE CAN!だね☆


もう20年ほど前、東京の小金井公園の畔に暮らしていた時のこと。

霜が降りる11月の武蔵野の雑木林の中で、小柄なお爺さんが見たこともないような太極拳を錬拳されていた。

その動きが上品で、見事で、何とも言えない神韻縹渺とした風格があ
ったので、ひと段落ついた所を見て、思わず声をかけてしまった。

ひょっとしたら日本語が通じない可能性もあったので、まずはは中国語で話しかけてみると
「大丈夫、私は日本人だよ。」と一言。

不思議で素晴らしい太極拳を、僭越ながらも褒め称えると、
「自分の到っているところ、至らぬところは自分が解っております。貴方のお言葉は大変ありがたいが・・・」と、簡潔に答えられた。

それまで出会った人は、自分も含めておおむね、ほめればうれしい顔をする。ケチをつければ当然不機嫌になる。

しかしそのご老人は、ぼくの評価などそよ風の様に受け流し、それでいて全く嫌みのない爽やかで暖かな眼差しで、僕をじっと見つめた。
「あなたは本格的なものを中々良く稽古をされてきたようですから、こんどは禅もおやりなさい。私が良い老師を紹介できますよ」と、また一言。
それからベンチで暖かいコーヒーを飲みながら、小一時間も話し込んでしまった。

そのご老人ーI老師は戦前、上海の東亜同文書院大学校に学び、日中のかけ橋を自任して活躍した方だった。中国にいるときは太極拳の素晴らしさに惹かれ、手ほどきを受けたらしい。
敗戦後、大変な思いを経て帰国、それでも中国への想いは消えず楊名時老師の唱導する太極拳の門に学び、また道元禅師の正法眼蔵随紋録に出会い、曹洞の禅を学ぶ。

どおりでそれまで見てきた太極拳とは一味違った風格な訳だ。楊名時老師の太極拳の表現の中に、I老師一代の大覚悟が溢れている・・・僕はその空気感に神々しささえ感じた。
それまで僕は、流派や伝承系統の純粋さ、実践的に使えるのか否か、だけを自分なりの評価の軸に据えていた。

老師との一期一会がなかったら、ひょっとしたらいまだに僕は正統非正統、有効非有効の二律の世界で消耗していたかもしれない。

しかし、こういった素晴らしい調和の風格を醸す在り方もあるのだ。理屈でなく、そう感じさせてくれた出会いだった。

思えばあのころはいろいろあった。自分の価値観もグラグラしていた。信じていたものを、頑なに守り通すことに限界を覚えていた時期でもあった。そんな時に老師の動きは素晴らしく美しいものに思えたのだった。

老師とのお付き合いは、これを皮切りに、おもに禅関係(多くは書簡や書籍の贈与など)をつうじてのものだったが、先生がお亡くなりになる前まで継続した。その中で学び得たものはこの年齢になって、より染みてくる内容が多い。

議論は異論を生むもの。異論はとうぜんは諍いの元となる。

異論でなく「それも又良しイエスかな」の心で(笑)
大らかにしていたって、全然かまわない。
残るべきものは残り、影響を与えるべき時には、文化的遺伝子はしっかりと残すものなのだ。形も大事だが、されど・・・高が・・・、と言うことを忘れないようにしたい。

オーソドックスにしがみついて、本質を失ってしまうということもありうるだろう。僕はむしろそれが怖いし、まったく性に合わないのだ。むろん横道に逸れ過ぎるということは重々注意・・・
そんな感じで自分のなかでもいっぱいいっぱいなんだから、人様のことなぞどうこう出来るとは、とてもじゃないけど思えないのだが・・・


そうやってゆったりとした構えで、脚下照顧しつつ歩んで行きたいものである。



2016年6月24日金曜日

屈託なき笑顔に朝日映ゆるかな

尊敬する武術の大先輩から、大変嬉しいお言葉を賜りました。

普段褒められるということが皆無の生活をしておりますもので、天にもノボル・・・とはちょっとオーバーですが(笑)相当に励みになりました( ^)o(^ )vので、皆さんのお褒めの言葉、お待ちしております(@_@)


・・・というのは冗談ですが(笑)、私如きものは本当に武術に助けられ、扶けられ、援けられて今まで来たのだなあ、と感じております。武術を司る神様がいるのなら、心より感謝申し上げたい。...
ひとえにこれは技、それを運び来た道、ヒトこそが尊いので、珍獣なんぞはその掌中に遊ぶエテ公同全、偉大なる師匠たちの前では穴が有ったら隠れてしまいたい軽輩なのでございます。



そもそも私は7か月の未熟児で生まれました。
お産も大変だったそうで、母はそれで二人目を断念したそうです。紫のチアノーゼ状態で半死半生で保育器にひと月以上もいたのだそうです。その時に刻まれた心身の後遺症的なものは、今に至るまで影響を及ぼしております。

武術の家に生まれたのにもかかわらず、毎日天井を見ている自分を大人たちはどう思っているのだろうか、と毎日思い悩み、また特殊な家庭環境などもあって、幼少期は過度のストレスと虚弱の為、強度のチック症になってしまいました。

だから屈託なく育てたよその子がうらやましくて仕方がありませんでした。だからこそ心身の向上には人一倍興味があったのだと思います。

武術、荒事が多かった環境でしたが、私を救ったのも武術の稽古で得られる体力の向上や同学との友情、そしてこの世には達人がいる!という希望でした。

わたしはいじめられていた時もあったし、ぐったりしていた時もあったし、なんにもやらずにぶらぶらしていたこともありました。グレて危ない道に入っていったこともありました。無茶もいろいろやりました。でも、結局は武術・躰術が大きな指標になっていたので戻ってきてしまうのです。

大きく迂回しても、結局突き蹴りして、棒を振っている自分がいるのです。まあ、これからも多分その感覚は変わらないのだと思います。これが一番しっくりくる、自分らしいひと時になってしまっているのです。

なぜか武術・躰術に尽きない興味と面白さを感じる・・・これが武縁というものなのでしょうか・・・武術を長く続けておられる先輩方は、その点肯首されること多いのではないでしょうか。


身体が弱いとか心が平穏でない人が稽古会に何年も通ってくれていることと、私の幼少の経験と言うのは関係があるのだと思っております。それは自分は優等生だったり、特待生だったりしたことは一度もないという自覚があるからなのではないかと思っています。

嬉しいお言葉を賜って却って申し訳ないのですが、純然たるお褒めの言葉と言うのは、これはまったく私にとっては過分も過分・・・マイナスからの出発で、今でもとろとろやっている、と言うだけなのです。最近になってやっとすこしだけ・・・健康というものを享受することができてきた、これまでのことも無駄ではなかったのかなあ、と感謝を表すことが出来るようになってきました。
おじさんになって、やっと屈託なく、からりと笑えるようになってきたということでしょうか。

ただ一点・・・この道の味わいについては、深く繊細に、そのうま味を楽しむこと人後に落ちない所存です。だからこそ、ひと様にもお勧めもし、是非ご一緒に!と楽しんで行けるわけです。

そのような意味でも、親や師匠には感謝してもし切れないのでございます。長文失礼申しあげました_(._.)_

2016年6月15日水曜日

森渡る風もとぶらう落花哉

備忘録
今日も順心老人との稽古。

(注:順心斎老先生は、僕の柔術剣術のお師匠で、甲陽地方に残された諏訪古伝の体術を今に伝えるおそらく唯一の伝承者です。御年80ですが実戦で磨かれた技は衰えることを知らず、私は毎回めためたに扱かれて2年が経ちました。最近お友達になった方が多いので一応説明してみました。)

...
まず驚くのはその足腰の強さ。80歳の年齢を全く感じさせない粘り。よく四つ相撲をするのだが、一回たりとも押し込めたことがない。異常な強さだ。まるで牛と相撲をしているように感じる。
以前、といっても去年?ロシア人の2メートル、120キロある巨漢と押し相撲をして、相手は一歩も押させなかったというのだから凄い。大汗をかいて仕舞には地べたに座りこんだようだ。
押し込めない代わりに自分も押せなかったらしいが、柔の技を使うといとも簡単に地べたに突っ込まされてしまったというのを、目撃した数名の人から聞いている・・・世の中には化け物がいるもんだ。


ここ最近になって、順心斎斎先生の教えが全くぶれていないことに気が付いた。出会ってから、私は紆余曲折、迷いながら稽古をしてきたが、今日やっと師の教えの通りに動くことができたようだ。
すると、師の万力のような力で抑えられていたとしても、殆ど何の抵抗もなくスルリと投げ捨てることができた。

これは予想だにしない全く画期的な経験だった。なるほど、未だ言葉では何とも言えないが、手掛かりには十分な感覚。これが全身に及べば、大きな相手でも関係ないのかもしれない。
受け身をとりながら師は破顔一笑「2年教えてやっと私の言っていることを真に受けてくれましたね!」との言。まったく面目なく、申し訳なく、忝かった。


思うに最近上海の師父に直された経験がもろに効いていたようだ。


腰を中心に動く場合の、頭部のリードの配合の問題なのだが、少しの差が身体にラグを作って、一調子を阻害していたようだった。 むしろ手足などはほとんど動いていないくらいがいい。
まさに躰術が躰術たるゆえんだと再認識した。


諏訪の柔は肘当て、足当て、足払いを多用する。
その一つ一つが鋭く、早く、重い。師のそれを見るだに、もろに食らうとヤバイと思う。打つほどに高く、早く引く稽古をする。
80歳にも拘らず(…ってのが多いのだが:笑)ロー、ミドルを一気に蹴り分ける師。まったく経験したことのない蹴りのポジションは興味深い。しかしこれも去年見ていた姿とは違って見える。


つまり、何にも見えていなかったのだ。
いまでは腰から上がる力がありありと見える。


刀術に関しても、今日は目が開かれることが多かった。
何故組太刀を稽古するのか、その意味、どんな意識で行うのか。
武術は畢竟人を殺し、自分を守るものなので、その稽古は自然生き死にの稽古となる。その気で追及しなければ大成しないが、生涯使わないことを旨とする。実に無用の用の徳を養う。
一般の人からすると、考えられないような無駄であり、人様に決して勧めることのできるものでは無い、ということ。
その意識の上で行う組太刀。
髪の毛まで切り降ろされ、頭蓋に風を感じてピタリと止まる木刀。
必死の気構えで出ていかなくては、足を払う相手に乗って、上段を打つことが出来ない。それをさらに月の捌きに嵌め落として勝ちを得る・・・
うそっこで本当を生み出すのが組み太刀なんだよ、とにこやかに言うだが、そこに打ち込める隙は見当たらない。
残心の平中段、そこからの変化、左手の位置、前捌き・・・
山のごとく、海のごとく険しくて深い課題に今回も呆然としたのだった。


・・・じつは今日は師匠が可愛がっていた庵の近所に住む女の児の葬儀の日だった。僕も良くお話をしたことのあるその少女は、つい一昨日まで師の畑の傍で、飽きずに作業を見て「おじさんはよく働くんだねえ」と笑っていたのだという。

父親が朝突然訪ねてきて「夜に突然亡くなった」旨を知らせてきた。師は死に顔を見ると、それが心に残る、お別れは私の胸の中で行いますから・・・と言って参列は固辞されたそうだ。そのあと涙にくれる父親の肩を抱いて、しばらく一緒にいてあげたのだそうだ。
・・・あまりにも早すぎる、突然の命の幕切れに、命とは、生死とは、それを超えて流れるものや、人の思いと言ったことごとに思いを馳せずにいられなかった今日の稽古。
弔いの警笛が森を伝う風に乗って聞こえてきた。

先生と僕は森の中の道まで出て、風上に向かって、めいめい最後の挨拶をしたのだった。

2016年5月14日土曜日

易不易②

さきほど太極拳の帰りに、アメリカから一時帰国されている中西さんご一家とカフェ105に向かって歩いていたところ、目の前の茂みからふわっと白い何かが躍り出て、目の前を通り過ぎました。
よく見るとチョウです。それも今まで見たこともないような…マダラチョウ?それともアゲハの羽が破損しているの?シロチョウの大型のものか??一瞬で頭の中の原色日本産チョウ類図鑑を検索しましたが、該当のものがおもいつきません(; ・`д・´)

僕も小学生から高校生までは、人後に落ちることないくらいのチョウきちでしたので、関東平野に生息するチョウで初見のものなどいないと思っていましたので、この遭遇には驚きました。

追っかけて見失うとまたもう一頭・・・
中西さんにお願いしてパチリと写真に収めました。


家に帰ってpcで検索・・・蓋を開ければ、なるほど、アカボシゴマダラの春型。
僕がチョウ屋を引退してから増えたという外来種でした!
年に3回も羽化して、在来種が肩身狭くなっちゃうような勢いで繁殖するえげつない種類なのだそうです。
あんなにゆったりふんわりしてるのにな・・・それにしても初めて見ました。それはそれで、感動!の出会いでしたよ☆


最近は日本の気候も変わり、以前は関東圏では見られなかった、もしくは少なかった種類の昆虫も、普通に見られることが多くなってきました。
チョウではナガサキアゲハやシロオビアゲハ、モンキアゲハなどの南方の大型アゲハをよく見かけます。
気候などの根本的なところが変わると、植物や昆虫層も、私たちの知らないうちにかわってきて、気が付けば以前とは全く違った風景になることも。
内側の変化というものが劇的に外側を変容させるのだなあと感心してしまいましたよ。


 (ちなみにアカホシゴマダラは、気候の変化というよりも人為的に持ち込まれたという見方が強いそうです。でも、気候が合致したからこそ繁殖しているので、やはり大地の気が変化した表れの一つなのだ、と納得しています。)

ちなみにこれは国チョウのオオムラサキ。おなじエノキを食草とする大型タテハの仲間です。
アカホシが増えると、こっちがすくなくなるんじゃね??とか考えられているそうです。

2016年5月11日水曜日

繰り言


その門派が基本としている稽古法を見れば、大体の場合そこで何を大切にしているのかがわかります。
昔は武術に生き死にがかかる時代でしたので、ぜーーーーったいに、それらを見せたり、やすやすと教えることなどあり得なかったそうです。...
中には基本の基本と、その遥かに向こうの連続技は、公開してゆく方針の先生もいたかもしれません。


でも肝心かなめは、信頼できる少数の人にしか示さなかったし、示しても害のない人だったとしても、その人が曲解をして伝えてしまう恐れがある場合は、やはり数手省いたりして教えたものです。

教える側は、教えるだけの内容があるのだし、学ぶ側は、学びたくて来ているわけですから、教える側と学ぶ側が平等‼・・・な訳はあるはずもなく、教える側はいつだってフェイクを伝える権利があったのです。
学ぶものも、それで文句を言う筋ではないということが解っていました。だから「あなたは才能がないので武術はやめた方がいいです。」と弟子にいえる強さがあったわけです。(僕なんか過去3回ほど言われたことがありますよ:泣)

そういう意味で、今の人は甘い。と、いうか教わって当然☆お金払ってるんだから(*‘∀‘)…とか思ってる。これは無いですね"(-""-)"
まあ、学ぶ側もイノチガケのものを学ぶ、なんていう観念からしてないわけですから、こっち側が合わせてあげる必要もあるのかもしれませんね。



また平和・・・と言うだけでなく、情報技術の発展という面からも良い時代になったということもできるでしょう。動画などでふんだんに古伝の、しかも質の高い稽古法が、それも無料で!拝見できるようになるなんて…!こんな伝統のスーパーインフレーションな時代が来るとは、師匠方は絶対思いもよらなかったでしょうね。

でも、当然なんですが人は自分の体験、内実に照らし合わせてでしか判断はできないようになっているみたいなんですね。
だから僕がすごい!と思って見ているものでも、練達の士からすれば「こんな凡庸なもの」と映るでしょうし、実際20年前に小ばかにしていた動画(スンマセン)が、今見ると思ったよりすごくて自分の見識不足を痛感するなんてことも良くあります。

だから覚悟して記録を残そうとされる先人の方たちには頭が下がります。もう、拳や刀で切った張ったという時代ではないということを、伝承者自体が痛感していて、むしろ人類の無形の文化遺産としてアーカイブに保存して行くような遠大な志を感じるわけです。

そうすれば相応のものを相応の人が見て、相応の成果を引き出すことが出来る・・・これは技術を提供する側からすれば、人類愛に通じる、素晴らしいことだと思います。


では、受ける側はどうか・・・?
相応のものが学べば、鐘が打てば響く例えのごとく、一気に頓悟にに至ってしまうかもしれません。
しかし、なまくらな感性でものを見た場合、それなりの相応が引き出されてしまうでしょう。
誤解が曲解を生み、本来のものと大きく異なるものが保存される危険性があります。そんなことを言っている私自体、先人のものを完全に保っているのか、そのスピリットを継承しているのか、と言うことは甚だ疑問です。だからこそ稽古をせざるを得ない。こうなると行の世界です。

また良くも悪くもこの膨大なタイトルの海・・・これを泳ぎ渡れる人は、相当な見識を自分の中に打ち立てた人と言えるでしょう。溺れる人が藁の良しあしを考慮する余裕があるわけがありません。
ほとんどの人は好みでそれらを判断するでしょう。好みでものの良しあしを図れるとしたならば、戦争はなくなり法律は要らなくなるでしょう。「好みで無いけれど学ぶところがある」というような「不味いもの」でも食べるべき時は食べる!みたいな感覚でなくては、所詮旦那芸に終わってしまうかもしれません。

・・・やっぱり大事なのは、基本を深く稽古してゆく、そしてその中の哲理や要求を自分のものとして内在化させてゆく、本当の意味での伝承作業をおこなってゆくしかないのだと思っています。
ふりだしに戻る、というわけですね(∩´∀`)∩

2016年3月10日木曜日

菜食生活、慣れるとラクだ(*'ω'*)

去年の日記から

菜食、というかマクロビをやめたという人のブログが話題になっているらしいので読んでみた。

そのひとの主張では「完全菜食の人ですごく健康そうな人に会ったことがない」という素朴な疑問から始まって、「植物食の人は吸収するとき必ず糖質に変換されて吸収されるので、どうしても糖質過多になってしまう。」という理論のところと、マクロビでいう無双原理、いわゆる陰陽の法則では食物のすべての分類は割り切れないのでは・・・という素直な視線があって、なるほど、と思わせる説得力もあるし、そういう風に思っている人は少なくないだろう、とおもった。


何よりいいのはこの人は個人的に、長年マクロビの実践をしてきた中で、「なんかおかしい」という違和感を大事に持ち続けながら、自分なりの模索を繰り返していた点だと思う。そうでなければこういった説得力のある主張は書けないと思う。
...
しかしと言ってはなんだけれど、僕は完全菜食をはじめて3年以上になるが、この人の主張するような不健康な感じが全くない。肌がカサカサしたり、抵抗力が落ちたり、怒りっぽくなったり・・・と、よく見る菜食原理主義者のイメージとはかけ離れた体格、体力を維持している、というか以前より燃費が良くなり、体の切れは増し、まったく調子がいい。

仕事の体術教師として、多い時は一日8時間の運動をこなし、多くの人と交流しながら、別段以前より怒りっぽくなったり、悲嘆したりということもなく、むしろ淡々として爽快、あくまでも主観だけれど、以前より落ち着いたような気がする。まあ、歳を取ったというのも大いに関係しているだろうけれど。

そこで思うことー
上述の記事が人の目に触れたとき、「なんだ、やっぱり極端はダメだよな、中道中道・・・」という短絡的な反応が多かったような気がする。

それはあくまで何の体験も経ないただの直観、それも無責任なつぶやきの場合が多いわけで、そのブログを書いた人や僕のように、自分の身体を以て導き出した結論が語られたわけではない。(もちろんそうでないものもあるけれど)

それでも日本人は「和を以て貴しとなす」国ぶりが良くも悪くも身に染みているわけで、なんというか「中道」とかいうふわふわもふもふしたコトバが大好き!なので、まあ、早い話安心したい大多数の人は、物分かりの良い、まとまりの良い、落ちの着く着地点、この場合は「完全菜食」なる異端に対しての拒否反応というものに根拠を提供しただけになっているような印象がある。



残念ながらそんなに物わかりが良い方でない僕は、人から見れば極端な生き方をしているのかもしれない・・・でも、自分的にはなるようにして自然になっているわけで(内功修練の結果、菜食を余儀なくされている)信じるところを只行っているというだけなので、まあやっぱり珍獣ってことなんですよね・・・(´・ω・`)ず~ん!

2016年3月1日火曜日

鍵縄はあぶないから振り回してはいけません。

ついさっき道場の修繕をしていたら、富士見町の役場から面白い電話がありました。

 「あの、いま日本テレビのニュースゼロから問い合わせがありまして、イヨクさんに忍者の道具のことで伺いたいということなんですが、お繋ぎしてもよろしいでしょうか??」

 「…まあ、私のご協力できることはあまりないと思いますが」と申し上げて、電話をつないでいただきました。

「実は、今朝、紐の先に尖った熊手のようなものって、なんというのでしょう?ああ、そう鍵縄というんですか?包丁で人を刺してから、それを振りまわして警察官に威嚇発砲され逮捕された学生がニュースになっていまして、その本来の使い方って、実際どういう具合だったのか、もしよろしかったら実演していただければと思うのですが・・・」という内容にびっくりぽんでした。
...
そこで私は
①あれは登城器の中でも(鍵縄)と言って、振り回すのでなく城壁や木、高楼などに上るためのものだということ。
②振り回して攻撃といえば、中国の縄鏢や流星、銚子の石黒流の縄術が本道であること。
③今、鍵縄術を正しく伝承しているところはおそらく皆無に近く、私などは正しく動作をもって師範、説明することはできないので丁重にご辞退申し上げました。その代わりに、おそらくそれについても独自に練習されているであろう初見先生の武神館道場をご紹介させていただきました。制作の方、大変お喜びでした。

・・・こういうお話は、商売っ気があると、出来る出来ないかかわらず、これを好機と飛びつくのでしょうが、私にはそんな度胸はありません。

 以前ロンドンブーツの番組やパチンコの構成などにも出演や協力を依頼されましたが、そちらも同様、丁重にお断りいたしました。出来ないものは出来ません。だってやったことないんだもの。"(-""-)"ですからこれは、あくまでもネタとしてのご報告です。

★でも出来ることは喜んでご協力いたしますよ(*’ω’*)『真田丸』関係のお話し来ないかな~♪とかは120%思っています。(*’▽’)・・・★と、こそっとアピール(笑)

それにしても鍵縄振り回す子供なら、警棒立てておけば巻き付いて使えないでしょうにねえ…毒でも塗ってるわけあんめえし。でも鍵縄で威嚇して、包丁で刺す気満々なら、間合いというものを知らなければ、絶対ビビってしまいますね。こんなこと言って僕なら撃っちゃったかもしれませんね~(+o+)г・・・バーン!

 警察官の皆さんも、春が近くなってくるといろいろ大変ですね。刺された方も、このクソガキも、警察の方も、みんな大事無いようで本当によかったですね。

 

2016年2月26日金曜日

2・26、八ヶ岳は雪模様。

今日は2・26忌。80年前のこの日、私たちは大きな決断をし、大きなものを失った。

国を、世界を、人類を憂う人々の想いには、敵も味方もない。国粋もコミュニズムもない。
立場が違えば捧げる対象も違う。...

将校たちの純情も、警察官の使命感も、ひとしく尊いということがわからなければ、それはその人が、いまだ分別の世界にいるということなのだ。


そんな分別の心を持ったまま、殺し殺されるのを否定するのは可笑しい。
分別こそが殺し殺されることの根にあるからだ。

しかし、我々人類は実際、このように殺し殺され今までやってきた。
そうしたうえで今の世の中がある。
そして愛し愛されて今まで生命を繋げてきた。
その結果が私たち一人一人なのだ。

今の世の中と80年前が、いかに似ていようが、いかに違おうが、それらを単純に、同列に考えさせたい奴らがいる。 分別の巷に迷い込ませたいのだろうか。 一体何のために?

じっさい私たちは、同じ行いを繰り返す必要は全くないし、右にならえ式に、過去を全く否定する必要も無いのだと考える。
大切なのは、その時代時代の意義というものを、自分の頭で考え、身体で体得し、自分の言葉を発する勇気を持つ、ということだけなのだ。

言うまでもなく、世界は和を為さなくてはならない。しかしその真ん中は真空でなくてはならないだろう。
もしそこに要としての人が収まるのだとしたならば、空性を備えた者しかその場の強度には耐えられない、そしてその道は想像を絶する滅私の道なのだと想像する。そうとならなければ治まるものも治まるはずがない。

発展途上の世界の中では、空性を持つ者たちから、まるで燔祭の羊のように屠られてゆく。もののふは士道に殉じたが、それは士道に於いて空なるが故だった。

 公僕と言われる公安、浅慮と揶揄される青年将校、どちらも空に至る道のりの中で倒れ傷つき、命を捧げ果てたのだと、私は観る。

今に生き、過剰な情報と保護の下暮らしている私たちにおいても、今日の日くらいは滅私奉公、という言葉が自らの魂の底から湧き出てくるような、そんな純情な時代が過去あったのだということを思い出しても罰は当たるまい。

この日は忘れられ、目を背けられ、いまにも風化しようとしている。
彼らは何のため、何を敵として戦ったのだろうか。
現行の教育では、決して語られないその真意・・・
黙して散っていったすべての魂に黙祷を捧げます。

・・・毎年この日は自分の考えを伸べるようにしています。私の家は母方の祖父が皇道派青年将校、父方の祖父がコミュニストでした。
どちらも命がけで大きな人間という群れに、責任を負おうとしたことを知っていますので、いろいろ考えるところがあるのです。ちなみに僕は右翼でも左翼でもありません。みんな仲良くイヨクです(*'ω'*)

2016年1月31日日曜日

進む心なくして進むなり

八千代の稽古場は中世の山城だったらしく、小高い丘の上の飯綱神社裏手にある。
周囲3百メートルくらいの土手の上には、桜並木の遊歩道が円形の広々とした草地を囲んでいる。暖かい季節は子供の声が絶えない市民憩いの森。関東の四季の風情も懐かしい、気持ちのよい所だ。


もう此処での稽古会も長いのだが、人数は全く増えない。長野に引っ越すこともあり、何度か閉会も考えたが、この場所と、寒暑を共にした門人さんたちへの思い入れも強いので、辞めるに辞められず、なんと十年を数えた。

この稽古会の特徴と言えば、もともと合気道や柔術をやった人が多かったので、立関節や木刀稽古などを取り入れたこと。お陰で今の吾妻流に繋がって行く体術の総括を行うことができた。

 一見無駄なことや、遠回りに見えることのなかに次のステージへの布石が隠されていたりする。そんなことはその渦中では思いも依らないことなのだけれど、その時々に心の赴くようにしてきた結果、後で思えば・・・みたいなことは少なくない。

今日の稽古は、先週から続いて串勁の養成。左右に踏みかえながら相手の陰陽を引き出す。それには呼び水が必要だ。これを陰中の陽、陽中の陰という。


 陰陽を明らかにするというのは、どちらかを浮かしてどちらかを下すというような、表面的、観念的なことではない。右が実になった分、左は虚になると言う事は、ワンネスと言う事の説明に他ならない。二進法の世界ではなく、絶え間ないグラディエーションを、刻々マインドが認識できるのか、という限りのない世界観を示しているのだ。だからこそ稽古の行く先もまた限りのないものになってくる。

陰陽転換を見つめながら、公園の外周をまわると、自分が動いている感覚は失せ、景色が勝手に後ろへ流れてゆく。あるのは天と地と、そのさ中で虹のように、陰陽虚実変転する自分が足踏みしているのみ。絵巻の中を歩むような夢心地で、気が付けば元の場所に戻っていた。

稽古した手は万波揺舟、丹鶴迎風。旋腕開合して陰陽転換を画する。
応用としては吾妻流の入身投げと小手巻投げを草地に出て行う。套路と内功で培った功を、柔術の技を掛け合うことで確認するという独特のスタイルは、この飯綱神社の公園から自然発生的に出てきた。

そもそも飯綱権現様は神仏合一の尊形。修験の本尊に見守られながら、日本ー中国の技を綾に織りつつ稽古は続く・・・

2016年1月19日火曜日

ついにやってまいりました(;´Д`)

一昨日の夜半から降り続けた雪は、高速道路を塞ぎ、中央線をストップさせて、取材のため東京から来訪していた雑誌記者氏の足を止めてしまった。

 超過密スケジュールの中、トツジョ天から与えられた休暇?を強制的に取らされてしまった記者氏。民宿「錬誠館」で二泊の雪国体験をエンジョイ??していただくことに。

 100%ベジタリアンの食事をとっていただき、テレビもねえ、ラジオもねえ、車もそれほど走ってねえ環境で、雪の中を重い機材を担いで、私の後についてあっちの先生、こっちの先生と経めぐって、気が付けば不調だった身体が、大分好調になったといって喜んで帰途についた。

友遠方より来たりて国境の長いトンネルを過ぎると雪国、また楽しからずや・・・だったらいいのだけれど。


駄菓子可視!残されたおらっちにはまだ山積みのミッションインポッシブル(雪のこと)が!!
明日の朝イチでFM長野さんが真田忍者の取材に来るという。

 道場の前の駐車スペースは、平時はフルに停めると9台は停まるが、昨日の夜に除雪が入ったので路肩に積まれてしまった雪も換算すると、今朝の時点ではどんなに頑張っても3台分がいいとこ。

午前中の生徒さんたちは一人一台で来るわけで、ちょっと駐車に手間取るだろうなあ・・・ということで、今日は一日じゅう雪かきだった。

 今年の雪は、例年と比べて湿って重い雪。おそらくトラック一台分以上は動かしたが、一年ぶりだったので勘が戻らず、午前中はピッチも遅く広大な白一面のフィールドに呆然となることしばし。
休み休み、ひたすら腰を壊さないようにちまちまと。

 最後の2時間くらいでやっと一昨年の大雪の感覚がよみがえり、腹と脚だけで後方に跳ね飛し、全身が爽快になるころにフィニッシュ。 結局夕方までかかってしまったですよ!

毎日こんなことをやっていたらそれこそ大変な名人になるかもしれない、この季節になると、本気で思う。神様、明日はピーカンでお願いします( ;∀;)

2015年12月12日土曜日

平常運転ならず

昨日から今日の昼過ぎまで、ずいぶんゆったりと過ごせました。

要件って重なる時は重なるもので、当然あわただしく大変だと気がつまる。

 反対にゆったりしていると鷹揚な、おおらかな気分になる。

これこそ凡夫の凡夫たるゆえんでして、僕なんかすぐにアップアップしちゃって舵を切り損なっちゃいます。


だから緊張感の中、目一杯に働いている同世代の方々のお姿を見聞きするにつけ、到底自分では不可能な境涯を受け入れ、そこを錬磨の道場と見なして歩まれるありように畏敬を感じます。


不安定の中にバランスを、慌ただしさには落ち着きを、ゆったりしているときこそ日常心ではなく平常心を思う。

そう言う平法の覚悟に到徹した者をこそ非凡と呼び、道を尋ねたいものです。そんな修道の士がおられたら、それこそ天下の魁師として尊び、その見識に耳を傾けたいと思うのです。


午後は、あずさに揺られて東京へ。異常気象でダイヤは乱れ、遅れて到着しましたが、そのぶん変化に富んだ雲と虹と太陽のドラマを見ることができご機嫌でした。



    雲間より 臨む眸や 摩利支天 かぎろひ照らす 甲斐の奥山

それにしても、今日び子供でも空の虹をじっと見たりってしないんですね。八ヶ岳の上空に凄い二重の虹が出ていて、いい年したおっさん(僕)が写真なんかとってる横で、下を向いてスマホやってましたよ。あんなに綺麗で壮大なものなのになあ・・・



   八葉の 蓮の台の 峰々に 架け渡さむと 虹の橋立 

                                                                                                           松凬

2015年12月7日月曜日

意志

やけくそになりそうになったり、捨て鉢になったりして、それを行動に起こそうかというとき、不思議と『止め』がはいることが多い。

それを無視して、あえて覚悟して行う、ということがあるが、そういう時は好ましくない結果になることが多いような・・・。

でも、それでも悔いることまで丸抱えする気持ちが、覚悟というものだから、そうする以上は全部自分の責任において好ましくない結果を受け止めるしかない。


折角・・・と思うことも多いけど、馬鹿だなあ・・・という人も居るけれど、やらなかったら自分が腐る、というときはどんなに止めが入っても無視することにしている。

そうすると当然ドツボにはまり込む。

以前は無意識でスルーしていたが、今は確信犯的にそんな『天の声?』を無視することも・・・ある。こういった心理は我ながら理解に苦しむ。

お利口な人生ではない。できることなら器用に生きてみたいのだけれど・・・

2015年11月25日水曜日

祖母と僕と武道について

今日は結構時間があるので、祖母と僕と吾妻の縁について書こうと思う。

祖母伊藤(旧姓伊与久)志よう子は、群馬の伊与久の谷から中央法律学校(現中央大)進学のために出てきた、吾妻衆伊与久党の末を自任する紋三郎忠照と、八幡小町と謳われた椎橋はなの五女で、はなは志よう子を産んですぐに産後の肥立ちが悪く早逝したため、その母(自分からすると母方の祖母)ちかの養女となり、椎橋姓を名乗ることになった。

椎橋家は石炭販売で財を成した素封家で、八幡町会議員の中蔵(志よう子の祖父)初代市市議会員の三喜雄(志よう子の叔父、のちに義兄)と、気骨のある地方代議士を輩出した。

中蔵は葛飾八幡宮の氏子で世話人も務めた敬神家だった。成田街道拡張に伴う都市計画が持ちあがった時、地元の崇敬篤い禁足地・八幡の藪しらずに斧鉞が入るというのを聞き、賛成派議員の家に抜身の刀を持って乗り込み、広間に入るや否やそれを突き立て「藪しらずを切るか儂を切るか」と迫り、開発を沙汰やみにさせたという豪傑だったそうだ。


                      (明治期の八幡の藪しらず)

三喜雄もまた文武を善くし、剣術や剣舞にも造詣が深かった。広い敷地には洋館を建て、自らもチェロを弾き、志よう子にバイオリンやオルガンを弾かせ、今でいうファミリーコンサートを開くようなモダンな一面も持ち合わせていた。

志よう子は、そのような恵まれた環境で、歌舞音曲、詩歌管弦、書道、茶道、華道、香道、礼法、着付け、英語にも堪能だったようだ。武道は弓、馬、剣、薙刀、手裏剣、躰術、古式泳法などを、生来のセンスでスイスイと習得していったという。

(加筆:大多喜藩の上級藩士だった方からも手裏剣と薙刀、剣を学んでいたようです。この方からは主に小柄の投げ方や、殿中における奥方の決戦心得、襷捌きや鉢巻きに手裏剣を差して相手を撃ちとることなどが伝えられたようです。)

特に武術には天性があったらしく、薙刀や泳法では大会で好成績を残したし、手裏剣は大人も舌を巻くほどの上手だった。後に夫になる熊本出身の陸軍将校、日月流伝承者の伊藤禎三とは出会ったときから何度も試合をし、武技において敵わないと思ったことが交際の引き金になったとか。
こんな華々しいエピソードに満ちた祖母の生活も、先の太平洋戦争で最愛の背の君が戦死すると状況は一変する。

   (前列左端、伊与久紋三郎、右端、椎橋ちか、後列左から3人目、伊与久志よう子)

一面の焼け野原の中、それまで好意的だった人たちから冷遇され、伝来の遺物や武具もわずかな米と引き換えに四散し、人生の辛酸を味わい尽くした。そのような慣れない貧窮の生活を扶けたものは、若き日に身に着けた芸の数々だったと聞いている。昼間は料亭の仲居をしつつ晩は芸者たちの着付け、三味線の師匠も引き受け、時間を縫ってダンスホールの講師として活躍したりしたそうだ。幼い母たち姉妹は夜も遅くなって帰る祖母を、眠い目をこすりながら待っていた記憶があると言っていた。


共働きだった両親の下、僕が鍵っ子にならなかったのは、この祖母とその姉夫婦(伊与久を継ぎ、母が養女に入った)が一緒にいてくれたお蔭だった。物事には両面があるもので、寂しくなかった代わりに、僕に別の試練をもたらした。

伊与久を継いだ義理の祖父は過酷な戦争経験から酒に溺れ、アルコール中毒になり、家庭はこの祖父の狂乱と暴力に堪えなければならなかった。この祖父も関東軍でも有数の銃剣の使い手で、若い日はボクシングでもちょっと名の知れた人だったので、ひとたび出刃包丁なんか持って暴れた日には、機動隊出身の警官がジュラルミンの盾を持って二,三人がかりでないと取り押さえられないくらい大変だった。

 唯一これを制止できるのが祖父の溺愛する僕だったので、自然僕は幼くして防波堤のような立場を自覚せざるを得なかった。

起床ラッパの歌とともに起床し、完封摩擦をして、夕は夕で、晩酌につき合いながら少年兵の歌に涙し、関東健男児の歌を聞きながら眠りにつくと、祖父は機嫌が良かった。
そんな僕を憐れんで、影に日に守ってくれたのも、また祖母の志よう子だった。

祖母は僕に遊びの一環として、変わった礼法や体術、摩利支天の法や三密加持、手裏剣、剣と棒の数手を教えてくれた。しかし、ここで白状するが、当時の僕は日本の武術や文化に対して、言いようもない嫌悪感を抱いていた。先の大戦の敗戦による我が家の荒廃の原因というのが、恐らく軍部の武断政治にあるというのを、幼稚な頭脳乍らに感じていたのだと思う。その代わり、そのころの僕にとっては父のやっていた空手や、テレビで大流行していたカンフー、とくにジャッキーチェンの大陸的な動きに興趣をかき立てられていたのだった。やるなら絶対コレだな!と老師様との出会いを念じながら・・・選ぶものが結局は武道、というところが面白いのだけれど。それを感じてか、祖母も必要以上に僕にそれを強いることもなかった。

そう言うわけで、僕は祖母が手裏剣などを嗜んでいるということは、いかに親しい間柄でも秘密にしていた。実際のところ古臭い、○○流などと整備されていない、何とも言いようのないものの断片を「武道」だといったところで、それも手裏剣なんて・・・言えば絶対仲間外れにされる。屈託のない育ち方をしていたわけではないので、友人たちも特に聞いてくることもなかったのを良いことに、自分は日本武道なんて黴臭くて大嫌いだ、とのたまって憚ることがなかった。今思い返すと仕方ないとはいえ祖母や先祖には悪いことをしていたのかもしれない。

高校生になって中国武術を学び始めた時、色々な武術仲間ができた。その中の一人がS井君で、彼のひいおじいちゃんがやはり幕府に仕えた忍者だったという(公儀隠密か?)。 
そのころ僕は先祖が吾妻の地侍ということと祖母の手裏剣が結びつかなかったので、まったくもってNINJYAの彼を笑いものにしていた覚えがある。まあ、お互いに悪友だったわけで、最初にナイフで切り付けられたのも彼からだったのだから、別に済まないとは思っていないのだが、彼の忍者戦法も結構実戦には役に立っていたようだ。機会があればまた会って話をしてみたいものだ。

しかし高校在学時から、何かにとりつかれた様に各地の山岳霊場を回るようになり、有名無名の道者と誼を得、教えを受けたり、九度山、高野、熊野、秩父、東北などを跋渉することが心の支えになっていた二〇代は、今に至る準備期間だったのかもしれない。
今取り組んでいる忍者の歴史を俯瞰するうえで、熊野修験ー甲賀ー烏という先を繋いでゆく発想の元となったのが、この頃の山岳修行の日々だったというのはなんだか不思議だ。

あのころの訳もわからない衝動がなかったら、日本の歴史の多重性や、民衆の記憶の重要性などには目が向かなかったのではないか。そしてわが伊与久一党の歴史というものも、顧みられることもなかったのではなかったか。


                 (伊与久の郷にある本宗家の奥津城)

祖母という存在は、僕の人生最初の師匠とも言えるし、母親のような、誰よりも親しい人とも言えた。
上海留学から帰って、東京でアパート暮らしをしていたころ、どうしても嫌だった携帯電話を、当時付き合っていた彼女に言われ、素直に購入、加入した。

そして初めての着信は「祖母が危篤。すぐ帰ってきなさい」との母の悲痛な声。桜の花びらが春の嵐に舞い散る中、祖母は先祖たちの住む山々へと帰っていった。
祖母の訃報を聞いた時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。葬儀の準備に慌てふためく家族の声を聞きながら、歩くこともできずに放心していたことが忘れられない。

2015年11月19日木曜日

易不易

僕が教えている会の「特徴」がここに来て、よく見えるようになった。

それは「ブランド」で入会する人が、限りなく皆無に近い・・・!ということ。

10年20年と継続する人の中で、僕が誰々先生の弟子だ、とか、誰々の伝承を云々・・・みたいなことに詳しい人は、たぶんほとんど居られない。これは意外だった。

僕自身は、師傳に拘りを持ってやってきたし、自分の門派は有名ではないけれど歴史と格式のある良いものだという認識があるのだけど、長期で稽古されている方の中には、いまだ「姜氏門」を「しょうしもん」と読んだり、甚だしくは先生の先生って、シュー先生でしたっけ?そういえば女の人だったんでしたっけ?と言ったことすらある・・・(;´Д`)pヲイッ!!

ことあるごとに師父の話や武林の故事を紹介しているにもかかわらず・・・相当天然な人が集いに集っているのだ。

そして人の思いはとかくその通りにはならない、ということを頻繁に経験する。これは少し寂しいような気がしてしまう時もあるが、よく考えれば大変面白いことでもある。


~流なら~流、○○門ならそれで、ブランドで集った場合、そのブランドイメージが一つの指標となる傾向がある。
そこにいる指導者がブランドのイメージを表現しているうちは、生徒さんはついて来やすい。
しかしそのイメージとかけ離れてゆくと、生徒さんは離れる。
なぜなら、それはイメージといったふわふわしたものを媒介としてつながっているから。

でも実はそのイメージと言うのは多くの場合門外漢が、本の知識や伝聞、推測、そして多分のロマンを以てレッテルし、陳列されたもんがよくわからないうちに受け入れられてしまったモノなわけだから、往々にして実際とは違ったりすることがある。

だから世間で困っている先生方は、じつは結構おられるのではないかと推察している。先生のやることに、いちいちものの本ではこうでこうだ、とか茶々を入れられてはたまらないだろうしね。

伝承として伝わってきたものには、意外な切り口が多く、単純に外部からうかがい知れないような事柄も少なくない。
一定以上の修練を経て、はじめて師の示す本当の意味が理解できたりすることも一度や二度では利かない。


そういう意味では、うちの会の人はつき合いやすいのかも知れません。
姜氏門はこうでこうだ、とか、内家拳は云々とか、そもそもはじめっから余計な知識がない人が集まっているのだから。


僕がせっかく理解できた腕の角度は●●拳ではこうだけれど私たちの工夫はこうであるとか、示したところで「なるほど!」とは言うものの、なんだか他人事のよう・・・(; ・`д・´)このオタク的な喜びを共有して~なんて思う時もしばしば。

そもそもこだわりが少ない、というか関心が薄い・・・もうちょっと拘ってほしいと心配してしまう清々しいほどのアバウトさなのです( ;∀;)

うちの会で中々上達してきた方に、もっと拘るように!僕の全部を真似する気持ちが大事でしょう?と言ってみたら、こんな答えが返ってきた。

「お言葉ですが先生、私たちは生きてゆくうえで役に立つことをしたいので先生の教えを受けているのです。これからの人生、素手で勝負なんていうことは中々ないでしょう。私の関心は先生の仰っていた奇正相生にあります。腕の角度よりも今はあの身法を自分のものにしたいのです。」と、良い顔でにっこりと語るのだ。

・・・僕が自分の師父にそんなことを言えるかというと、口が裂けても出ようのない爆弾発言なのだが、困ったことに、僕はこれはこれで堂々とした立派な見解だと思ってしまう。
つまり、今の時代を生活者として生き遂げるための必要な躰術として、これを捉えてくれているということなんだから、十分に伝統を「活かす」心がありますよ!という表明と捉えられなくもないのだから。

むしろ一介の(と言ったら失礼だけれど)主婦が、心身に対してこのように明確な意識をもって対峙するようになった、というところが嬉しく、頼もしくもあるわけです。(もちろん拝師を念頭に置く場合はちゃんとしていただきますよ。でも自分の場合まだ早いと思っています。)

人はそれぞれ、会のありようも、それこそ教場のメンバーによっても色々です。
僕のようにマニアックに突っ込んでいく人も否定はできない。(というか居ると嬉しい)でも多くの生活者は、効率の良い動き方や、壊れにくい心身のありかた、生活のメリハリとしての良き運動習慣をこそ求めている。

そこに図らずもコミットしてしまい、師範を仰せつかった僕としては、彼らに添い乍ら躰術を楽しんで行く道を歩もうと覚悟しているわけです。
どんな形であれ、自分に伝えられ研究してきた技術が、縁のある人たちと共有でき、それが心身を自覚的に統御する方向に向かわせているのだから、まったく無価値の行為だとは考えられないわけです。

武術家として物足りない、せっかく伝統の素晴らしい師傳が云々と忝くも心配してくださる方もおられるかもしれませんが、私の示され、志向する道と言うのは独自のものです。これは私にしかできないものだし、私以外の方からすれば何の価値も見いだせない石ころの様なものなのかもしれません。

でも、それでいいのではないでしょうか。人間って往々にしてそういうものなのだと思います。

2015年10月15日木曜日

変わる風景、変わる心

道を歩いていると、ガラッと風景が変わる瞬間がある。

今までの冗長な道行が、一気に変化する。


涼風がそよぐ尾根筋に出た時もそうだし、切り通しの向こうは蒼海だった、ということもある。

止まっていたら、こんな風景には出会えない。


もっと鋭敏になると、場所の気配というものも、大変な変化があるということに気が付く。

人里からすこしだけ上がり、なにかと目があったような気がすると、清冽な泉のような気配が、滾々と湧き出している社の杜だったりする。

歩んでいればこそ、味わえる。



味わうということは、向き合うということは、自分を探ること。

自分の風景が変化して、動かない一点が徐々に絞れてくる。

規矩を得るには籠るべからず。さりとて貪るべからず。


☆まあ、少々貪っても良いんだけど、何時までも貪り続けるってのも、なかなか出来そうで出来るものでもないからね~(*´ω`)

2015年10月12日月曜日

縁と一言でいっても、いろいろありますね。でも、それらすべてが有難い(*'ω'*)

人と人の縁というのは、努力しないと続かない時もある。

そうかと思うと、何ら力を加えなくても空気のように始まり、それこそ空気のように長く続く付き合いになるというのもある。

私と姜氏門、鄒淑嫺師父は、双方が相当に努力してきた。
穏やかな物腰に激しい情熱を隠した、綿裡蔵針そのものの師父だから、単純パッション馬鹿の若造だった僕からは、想像もできないような心の葛藤があったのだと思う。

それは時に、というか、付き合いが深くなるに従っては頻繁に発露されたのだが、その真の意味とかニュアンス、その後ろ側にある師父の人生や時々の精神状態まで見えて、いろいろと腑に落ちたのは、それこそ10年を数えて徐々に、僕もいろいろと経験をして、それなりの苦労もしてみて分かったことが多い。

師父からすれば、なんとも大変なお荷物を背負ってしまった・・・という一面もあったろう。
もちろん僕にしても、師父じゃなかったら、とっくにお付き合いゴメン被る!といって逃げてしまいたいような場面も沢山あった。

師父の中に何を見て、越え難きを越えられたのだろうか、技・・・は勿論なのだけれど、もう師父くらいになると、武術=その人生なので、やはり師父という人の表も裏も知って、それでも離れがたく、好きだといえる魅力が、その存在の裡にあったのだと思う。


それでも20年、よく一途について行けたものだと自分でも感心しているのだ。師父にしたってよくもまあ、全く性格も、言語体系ですら違った見ず知らずの若造に、自分の一番大切にしている宝をあげてしまおうと思われたものだ・・・これを縁と言わずして何を縁といえるのだろう?と、そう思うのだ。


そのような師父との丁々発止の触れ合いは、僕の青春時代すべてにわたって続き、僕が40歳、師父は90歳をかぞえて師爺の銅像引き継ぎという形でようやく安定したものに変化してきた。


そんな折に今の柔術の師、順心斎老先生に出会ったのだけれど、こちらはもう、事前におぜん立てが整っていたかのように、あれよあれよという間にご縁が出来上がってしまっている。これはもう、出会ったときから先生の流儀は継承する人が居られなかったし、僕はその存在を知った時から「この人は自分の師になるひとだ」という予感があった。

時が満ちるまでは2年間掛かったのだが、いろいろと時節が巡り、始まるときは思いもかけずにスーッと教傳モードに入ってしまった。
これもまた不思議な縁といえる。でも、ヒーヒー云いながら築いた鄒師父とのご縁がなければ、順心斎先生とも絶対に師弟関係にはなれなかっただろう。
技術的に見ても、僕の中に姜氏の錬躰が無かったとしたなら、今の諏訪神傳の技は手に余っていただろうし、以前の浅い人間観ではとても太刀打ちできないほど、先生の思想は重厚で説得力がある。

だから、二つの縁は、連環しているともいえる。


そういう目で見てゆくと、祖母に始まり、父、蟷螂拳の根本老師、開極拳の謝老師、和道流の長谷部師範、欄手門の尹老師、六合蟷螂の林老師、形意の趙玉祥老師、八天無双流の南里師範、そして小林流の村上勝美師匠・・・と、この人無くては今の自分になり得なかっただろう、という「有難き」ご縁の連鎖に導かれての今なのだということがよくわかる。

武縁、それも師傳だけでもこんなに沢山の縁の輪に囲まれている私がいる。
武友も含めたら、それはこれでは済まないくらいに、多士済々、いろいろな刺激を多方面から頂き、自分の輪郭が際立っているのである。

ここまでの、縁のあや模様を歩みながら振り返れば、いつでもなりふりとは無縁の自分がいたのに気が付いた。

これからも多分そうであるのだろう。今であっている人、これから出会う人、モノ、コト・・・格好をつける余裕など全くない。それだけ僕は待望して生きているのかもしれない。

いい年こいて・・・(*´ω`)てへぺろ。


☆ちなみに写真は師父86歳、3度目の来日の時の写真。偶然にも今自分が暮らしている地域を旅したときのスナップ・・・これもまた不思議な縁です(*´ω`)
こん時ゃ肉も酒も飲み食いしまくってました(^^)/ぷりぷりでしょ?

2015年10月10日土曜日

詠応と・・・!

今日も八ヶ岳は晴天なり。
秋晴れが続くのが、こんなに気持ちの良いものだったんだ~!って思ったり。

町の教育委員会の方から子供らのいろいろなお話を伺う。
少子化は悪いことばかりじゃないなあ、今の子達はたくさんの眼差しに支えられて大きくなってゆくんだなあと思う。
そして自分も、そのまなざしの一つ。子供たちの善き(今)を願う。

光琳めいた桜の樹皮。高原の冷気が鮮やかに染めた紅葉のさんざめき。

秋冷えに衣替えたり山櫻



ところでところで、富士見でスウィーツって言ったら、やっぱり洋風厨房「のんき」さんの『カフェジェラード』ですよね(*´ω`)b唐突ですが・・・


ここは家族ぐるみでお世話になってる古川さんのお店。
http://www.pension-raccoon.com/・・・/fujimi/nonki/nonki.html
いつもゴンチチが流れるあったかい空間、目の前の眺望は秘かに僕の『里山ベストビュー』の上位にランキングしちょります(^^)/
殆ど毎週お邪魔してまして、今では「マスター、いつもの」と言ったら濃厚な味付けの『オムナポリ』(肉抜き)を出してくれる仲に。

こちらにお寄りの際は寄ってみることお勧めですよ!
ちなみにうちのお客さんは、大体こちらに連れて行って、おなか一杯になってもらっています♪

古川さんもそうだけど、こっちへ来て、独特のライフスタイルで生きている同世代の大人にたくさん出会えてうれしい。

午後は友人の妖精版画家、フェンリル工房の太田さん宅にふらりと立ち寄ってみる。
http://kouboufenrir.web.fc2.com/
これでもかと云うくらい人の好い太田さん、製作を中座して降りてきて下さり、暫く縁側で歓談。

話は最近訪ねた白州の「虎踊り」と、「ムジナ和尚」の伝説について。
私の持ちだした「熊野修験」「甲賀三郎伝説」と錯綜して、まるで万華鏡のように綾なす話に魂を奪われ、気が付けば夕刻。二人とも呵々大笑(^◇^)

何が楽しいって、知の冒険ほどわくわくするものは多くはないですね。
太田さん、こんどはぜひ拙宅にて一献、

「あるく瞑想」を主唱している、大島くんパパもご一緒しましょうね!また生演奏もしてください(^^)/
http://ameblo.jp/mera1978/


詠応とこだまする間の頼もしさ

2015年9月25日金曜日

酒とブレーキ

ここ数年、お酒をやめていた。

 以前の僕を知っている人からすると、もはや信じられないという人も多かろう。
若いころは何だかもう訳が分からないくらい飲んでいた。
一時は、50度くらいの強い酒を、それこそゴクゴクとあおっていたものです。...
点滴で直接体に入れた方が効率いいんじゃない?と言われるくらい、アルコールべったりだった20、30代。よく金が持ったもんだと今では懐かしい。


でも、思えば別に、酒が好き!というわけでもなかったのだ。
酒の美味しさという意味でいえば、むしろ今の方がおいしいと感じているような。

 ただ単に酔っぱらっていたかった。あの酩酊した雰囲気が好きだったのだ。
境界がとろりと溶けて、言いたいことを大声でいい合って、時には情念のままぶつかり合える、ああいう嘘の付きようのない、思いがけないひと時を求めていたんだろう。

でもなぜ、そんなにひたぶるに非日常を求めていたんだろうか?

それは、根底に「生きることの軽薄さ」とか「ずる賢さ」を感じていたからなのではないか。
そんな弱い自分とか、世界を愛せなくって、計算高く立ち回ったり、健康のため丁寧に生きてみたり、ということは負けなんだ!とか思っていたのではなかったろうか?

それが故に、唯々酒の力を借りて、大騒ぎをしつつバランスをとっていた、というところか。
疾走感を求めて、それでもそんなに簡単に強くなれるわけもなく、だから身体は余念なく鍛えていたなあ。

でも養生という考えがなかったので、というか、そんなこと考える自分が許せなかったので、内臓は結構ダメージを受けていたのだろう。ともかくあのままではダメなのは自分でもわかっていた。

中国で修行中、身体の不調は最大になり、夜中に7度も8度も小便に行くようになった。師父と列車で2日もかけて四川の奥地までまで連れて行かれ、連日献身的に漢方薬と気功で治療を受けた・・・師父は親もしてくれないようなことをしてくれた(;´Д`)本当にありがとう!!

その後もだらだらと酒に頼っていたが、40を数える手前、酒が過ぎて不覚を取った。
そのころ自分は、やけっぱちになることに慣れてしまっていて、もうそんなに若くはないのだし、勝ち負けよりも、そこで暴れることに意義がある位に思っていた。
なんか、無用の用というか、ピエロになって見せるというのか。

まあ、丁寧に生きていなかったな。荒く、雑に生き捨てていた。今思えば師傳には申し訳ないことだったなあ。それもあっての完敗。というか酔っぱらっての喧嘩なんて、最低でしょ。自己嫌悪・・・

それからしばらくして、内功を積むのに迷いが生じていたころ、突然不眠の症状が出てきた。
眠れないんだけど身体にはパワーが満ちていて、背中を気感が迷走する・・・この感覚には正直閉口した.狂ってしまうんじゃないかというくらい悩ましいものだった。

ある日、たまらず師父に連絡をした。師父からは「完全菜食および断酒」と食養のアドバイスを受けた。疑いつつも実践すると、ひと月以上も眠れなかったのがウソのようにぐっすりと眠れたのにも驚愕した。いやはや、こういう現象も知悉しておられたか、奥が深いなあ、と感動しましたよ。

あれ以来、すこしだけ謙虚になった僕は、あんなに嫌だった生活者の道を模索するようになった。少しだけ丁寧に生きてみようと思えるようになってきた。
それで、丁寧に生きるというのは、なかなか大変だってことが判ってきた。

でも、何かを我慢して保守的に生きるということは、生き物の動きとしては自然ではない。
自然に生きるためには、いつでも疾走している必要はないが流動感は持っていないと腐ってしまう。腐ると結局自他共々ダメになってしまうものなのだ。ここの見極めは今だ難しいけどね。

流されて生きることも大事。自分の大事に思うものを突き詰めてゆくことも大事。
逃げることも大事。そして酩酊することも大事なんだよ、時には。
さいきんは心が動いた、と思える時にだけ・・・月に数回は飲んでも良いよ、と自分に許しを与えることにしている。覚悟がない時、なんとなくは絶対に飲まない。自分はブレーキを得た、っていうことなんですね、40いくつになって、やっと・・・(/ω\;)

いやはや、一周回ってこうなった、というお話でした。



写真は松本のクラフトビールフェスタ!…があるとは知らずに松本城へ車で行ったときの沈痛な面持ち。後は楽しそうに酔っぱらっている皆さん。やっぱり、お酒は好きです(*´ω`)