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2017年1月9日月曜日

2016年10月18日火曜日

行者杖の音

吾妻流として、纏めていかなくてはならないものに行者杖(金剛杖)がある。
中国の行者杖は孫行者で猿拳的だが、日本のそれは上に五輪を頂いた樫の棒で、役行者の伝統にあるのだろう。


これは僕の祖母とその親戚たちが妙義や榛名などの上毛の山々で修験の修行をした時に、お世話になったのかどんな関係があったのかは知らないが、法印さんと言って、在野の修行者がいて、その方が山を歩く時に使っていた杖の使い方らしい。


僕もその方の弟子筋なのか、息子なのか??山修行の先達さん(この人は本当に無口で、自分のことなどは殆ど語らない、謎の人だった(笑))について秩父や東北の行場を回ったことがあるから、祖母からというよりその方から多く学んだ。


いま、その方もなくなってずいぶん経ったので記すこともできるが、その頃は山に出入りしていても、その内容は他言無用ということだった(断食や瀧行、籠山行などはその方から学んだものです。何故多言無用だったのかというと、もともとそういった禁忌があったのか、おそらく民間の家でやっていて、宗教団体とは異なった儀軌だし、先達自体本職があったのですが、傍らでまじない、病気なおしみたいなこともされていたので、あまり目立ちたくなかったのではないでしょうか。)


歩き方や行者の杖の運用法(川衆とび・送り杖・繰り杖・数え歩きなど)は特にその本伝の内容ではないので、今思えば語っても良かったのではないか。(本伝の内容とは密教的なもの。所謂雑密ですね。)でも、口外すると佛罰云々と言われると、ちょっと怖かったというのもなきにしも非ず。

僕はその杖使いが大好きで、紹介状をかいてもらって伺った那智で誂えた2本目の杖を、今も大事に使っている。(あの時は決死の覚悟で行きました。5日間で紀伊半島を縦走、伯母子を超えて高野山につく時には足は血だらけ、目はギラギラだったです。一番真面目に行者をやっていた頃です。)




恐くて寡黙な先達曰く「杖がうまければ、50年たっても折れたりはしないもんだ・・・」
教えのお蔭か、それ以来行にあまり出ていないからか(笑)もう20年たった僕の金剛杖も、色こそ良い感じになってきたものの、底だけが丸くなっただけで、折れたりひびが入ったりはしていない。


この方の杖使いは、実に味があって、比叡の行者さんを彷彿とさせるものもあり、また武の内容もあり(昔は山で自衛する必要があったそうです)・・・これに祖母から学んだ数手の杖の技を錬りこんだものが、今の僕の行者杖となっています。

(★一時は薙刀や日月流の棒、形意棍術、八天無双流棒術、琉球古武道そしてこの行者杖を総合して(松風之棒)を作ろうとしたのですが、やはりそれには修行が足りない・・・あと20年練り直して、新たに一つ編めればいいかなあ、と思っております。)

2016年9月30日金曜日

おのれこそ、おのれがよるべ・・・

僕のとこにある(マキビシ)は、針のところに返しがついていて、一度刺さったら、肉ごと抉らなければ抜けないようになっている。
黒く燻されているので、薄暮時以降、外では絶対に見つからないだろう。


これはある鍛冶職人さんが博物館に収めるために試作したものを分けてもらったので、実際使われていた本歌ものでは無いが、昔使われていたものを基に忠実に再現して、悪意、害意がむき出しで形状化されており、禍々しいことこの上ない。

...
一説によると、撒く前には馬糞や人糞など、汚いもので汚してから撒く。破傷風感染を期待しているらしい。
刺さった人を放っておくこともできないだろうから、数名の追っ手の足を止めることができる。一度刺されば、侍ならばしばらく出仕はできまい、というかそれがもとで武士を廃業、切腹をするところまで追い込まれた人も居たかもしれない。


そういったものを、そんな話を聞かせながら、僕は忍者教室に来た子供たちに触らせている。
となりの子が、マキビシを持つ子を転ばせたら・・・
持ってよそ見をして踏んづけたら・・・
投げつけて目に刺さったら・・・
最初はそういう心配で身体が固まったものだった。
こういったものを純真な子供たちに触れさせていいのかな?という想いもあった。


でも、実際に持たせてみると、ふざける子供は一人もいない。だって、ふざければ大けが、悪ければ死んじゃうってすぐわかるものだから。
神妙に先っちょを触って、ぶるっと震えて、そーっと隣の子に渡す。片手で扱う子なんて滅多にいない。ここのところは大人よりもずうっと弁えた動きが出るので感心する。

「・・・みんな、こんな怖いものが、ばらまかれて落ちていたり、暗くなったら狼や山賊がいるような時代、みんなのご先祖さまたちは大変だったんだろうね・・・昔の戦の時代に生まれなくて、本当によかったよね!!」というと、素直にコクリと頷くのだ。




だってそうでしょう?街灯もある。お巡りさんもいる。飢饉で親に売られることもない。人さらいや野盗なんかがうろついているわけでも無い。何よりマキビシが落ちていない夜道の素晴らしいこと!!これ、みんなあたりまえだろ!って思ってませんか??


・・・平和が、水道の水のように当たり前になってしまった、この素晴らしさ・・・ここがわからなければ、皮肉なことだけれど、逆に治安は悪化の一途をたどるだろうし、実際そうなっているよね。
だって、当り前のものなんて、誰も大事にしないのだから。


でも、人間そんなに馬鹿じゃない。とくに小さい子供は。
それは当たり前、という感覚が大人のように手のつけられないような頑迷さを帯びてはいないからというだけ。だから本来(あたりまえ)は無い、ということに気が付かなくてはならない。
悪意や暴力っていうものが、世界には満ち満ちていて、そういうものからは毅然と自分で身を護る、という(あたりまえのこと)を、大人が感じていないし、教えてもいない。
今の平和を十分に享受して、感謝することなく、人任せだから、子供もそれに習っておかしいことになるんだ。


この世の中には、危ないものが沢山あって、それから身を護る、大切な者たちを護る、財産を守る、そうやって悩みながら営々と歩んできた歴史を鑑みて、今の私たちの環境が、有難く、ちょっとない素晴しい状態なんだ、ということに、「生活者の視点」から気が付くことが出来れば、私たち自身がもっともっとエネルギーをチャージできるのにな、とおもいます。


有難きことに気が付くことが、現実を肯定的にとらえて、人を活き活きとさせてくれる秘訣。
個人が活き活きとしている生活者の集団は、健全な張りが保たれ、自己免疫、自己浄化、自己防衛本能も蘇ると思います。

おばあちゃんの太陽日記


祖母が亡くなる寸前までつけていた『太陽日記』というのがある。

祖母は武家の本尊、摩利支天を尊崇していたようで、毎朝神棚と仏前に長い時間をかけて祈ると、決まって朝日に向かって日輪の印を組んで、大きな口を開けて両の掌の真ん中にある太陽の光を吞み下す動作をしていた。

『太陽を呑んじまうんだよ』と言っていたが、それが実際どこから来た教えなのか、今となっては良くわからない。...

ただ祖母の古いアルバムの中には、伊与久一党で上毛の山々を金剛杖を持って巡拝している写真がある。摩利支尊天や不動明王のご真言や、六根清浄など、私も良く教わったものだが、それらはそういった山での体験に関係あったと言えるのではないか。

そもそも我が家は真田忍軍とも謂われた吾妻衆の家系。修験密教との所縁も深く、その出自は山の民であった可能性も考えられる。

そんな祖母がある日『にいちゃん、今日は太陽の中にこんな字が見えるんだよう。』などと言い、ノートに鉛筆で描いてみせた。

それは僕から見ると字には到底見えないようなものなのだが、変体仮名を究めた祖母としては、立派に崩し字だということで、それから毎日朝の太陽を見ては、その中に浮かんでは消える字?残像??を読み取って、ノートにつけるようになった。

僕は『あのね、それは網膜が火傷をしてるんであって、字な訳ないでしょ?それにそんなことを続けていたら目が潰れてしまうからやめなよ!!』と、再三注意をした。実は祖母がボケてしまったんだと思っていた。

しかしそんな孫の心配をよそに、祖母の太陽日記は継続していった・・・!

そしてとうとう『にいちゃん、この日はこんな天気になるよ』とか『昼過ぎから誰々が来るよ』などと言いだしたのだ。
ああ、やっぱりボケちゃったんだな・・・と情けない気持ちになったものだが、不思議なのは、それが時に、というか結構頻繁に正鵠を得ている、つまり現実を予言している?ようなときが出てきたのだ。

『おばあちゃんはさあ、毎日神様の前で、広く真っ直ぐな道を歩くような気持ちで拝んでいるんだ。それで太陽を喰っちゃうと、身体中が真っ白な光で一杯になるんだ。そうするともうおばあちゃんが神様になっちゃうんだよ。だから怖いものはなんにもないんだよ。』・・・本当に晩年はそんなことを言ってケロッとしていた。

一度など、しつこい宗教の勧誘員に向かって『あんたたちの神様も立派な神様かもしれないけど、あたしも神様なんだから家にはもう神様はいらないんだよ!!』と言い放つのを傍で聞いていて笑い死にそうになったこともあった(*´Д`)

ここで書くとちょっとアレなので書かないが、説明できないような不思議なこともあったり・・・そんなこんなで実に面白い祖母だったが、遺品の中のどこを探してもも、あのちいさなノートはみつからない。お棺に入れて燃やされてしまったのか、それとも今もどこかに仕舞われているのだろうか・・・?
今あれを見たら、いろいろ面白かったのではないか?時々あの不思議な日々を思い出しては、にんまりとすることがあるのだ。


2016年8月11日木曜日

吾妻流『躰轉』

躰轉一つとっても段階があります。

①寝そべって片足の蹴りだけで反転する。

②上半身を反転させつつ、下半身は逆に蹴り正座で着地。

③上記の動きに背筋の伸展を加え、立膝で着地。

④立膝で着地するときに反転して再び伏せる。




昔の体術(少なくとも吾妻地方の)にはこんな身体使いが活かされていたらしい・・・

なぜ(らしい)というのかと言いますと、我が家で行われていたこういった(変な)身体遊びは、武芸躰術うんぬんという範疇では認識されていませんでしたし、これが活かされた武技という形で学んだことがないからです。


中国武術(長拳基本・蟷螂拳・峨眉派・八卦掌・形意拳など)の身体使いも、せんじ詰めればこういった奇正反転の動作というのがことのほか重要だということが、今だからこそ解ってきましたが、以前はこれとそれとの溝が埋まらず、また今より体重が20キロ以上も有ったので、再現も諦めておりましたもので・・・(*´Д`)タハハ・・・


でも、ようやっとこういった躰術と、伝統的な柔術や拳法の動作に関連性が見えてきました。「あ!これって武術の稽古だったんかい!?」みたいな感じです。

「おう!この転身を用いてじゃないとできない動作があるじゃあねえか!!」みたいな(笑)(例:丸身抜など)いまさらですが・・・


それだからこそ、子供たちにも躰術遊びを通じて、自己防衛やサバイバル能力の養成などをしていけるのではないかなあ・・・と、実感を以て考えられるのです。

2016年8月8日月曜日

体術関係、イベント目白押しです!!

忙しい~う~〜んなんて言ってるうちにもう8月!

これからさき、ドトーの躰術祭りに突入です(@_@;)

イベントが目白押しです。
どれも躰術に特化した、興味深いものです。
ご都合宜しい方は、ぜひ!!

①8月14日、伝統体術技法とその術理
https://www.facebook.com/events/197274117341713/
②8月21日、吾妻流忍術体験、大人と子供でスクーリング!
https://www.facebook.com/events/197274117341713/
③同日午後から夜、太和躰術協会、合同稽古会と暑気払い
https://www.facebook.com/events/1063264107102980/
④9月11日、第2回『武扇』セミナー
https://www.facebook.com/events/319668555034296/


           
伝統体術の伝道師として、死なない程度にがんばるぜ!!

2016年4月23日土曜日

祢津潜龍斎昌月殿

テレビ収録も終わり、密岩神社前は撤収に入ります。
そこで思わぬサプライズが!
私的には二人のスターとの共演に勝るとも劣らぬ興奮(#^^#)の、念願だった潜龍院跡探訪に連れて行ってもらえることに!


寺の開基である祢津潜龍斎昌月は、武田家旧臣の修験者のまとめ役で寺島さん・・・でなく出浦対馬様の参謀として諜報ルートの要を握っていた怪人。
「真田丸」初回でも有名な天目山の武田崩れの前に、草刈さん・・・じゃなかった、真田昌幸公の命で武田勝頼公を迎える山城を作ったのがこの人物。
結局勝頼公は唆され、自ら退路を断って族滅の運命を辿られたのは皆さんもご存知の通り。

...
その潜龍院に、末孫で郷土史家の祢津先生自らご案内下さり重要で示唆に富んだお話を伺うという、何とも贅沢なひと時を与えられました。
祢津先生の家は本院である潜龍院から沢を下ったところにある子院を受け持つ家柄であり、代々修験、馬医、製薬に従事してきたという忍者の典型の様なお家柄。
本院からの呼び出しは、沢伝いに伸びる呼子で、それが鳴ると急いで沢を登っていったのだとか。
寺の後背は天を衝く岩櫃の大絶壁ですが、吾妻渓谷に向かった前側も巨大な岩で隠されており、向こうからは全くこちらに何があるのかわからないような、要塞としてはこの上ない立地でした。
この立岩がかの有名な「来福寺左京物見の岩」。

 来福寺左京も元武田家旧臣で、潜龍斎とともに真田の修験・忍者の参謀として活躍したといいます。

真田に忍者はいなかった・・・と言っている人が、いまだたくさんいますが、何の根拠で言っているのか甚だ疑問です??地元にはこういった痕跡がまだまだたくさん残っており、真田領、とくに吾妻は伊賀甲賀と並ぶ忍者の郷なのです。
 

いやいや、今回も素晴らしきリアル忍者を訪ねる旅になりました(^_-)-☆潜龍院は密岩神社から徒歩10分。あざみの会さんがうっそうとしていた跡地を綺麗に整備されて、今は広々とした気持ちのよい散歩コースになっています。

皆様もぜひ行かれて、ひとときを真田忍軍の夢の跡に思いを馳せてみては如何でしょうか。

2016年4月22日金曜日

群馬テレビ ジョイの「ジョイント」に出演して参りました。

真田忍軍吾妻衆の先生役ということで、こんど群馬テレビさんの人気番組「joint!」に出演することになりました。

色々な試練を、ジョイさんとゲストのタレントさんにチャレンジしてもらうという企画。
わたしはその師範兼審判役というのを仰せつかったようです。...
当稽古会でよく行っている礼法や訓練法を、面白くアレンジしてお二人に競って頂くということです。


お二人ともモデル出身で身体も動くので、ちょっとどうなるか楽しみです( *´艸`)
私のほかにも吾妻衆の末裔の方が来てくださるようです。こっちも大分楽しみなのです。
先祖たち吾妻衆が活躍した岩櫃城の大絶壁の下で、こんなイベントに立ち会えるなんて、本当に不思議な感じがしています。 週録は来週。どうなることやら・・・(^_-)-☆

そして当日!!
大きな行事の前、必ずと言っていいほど体調を壊すワタシ・・・こういうお試し、いい加減もうやめてイージーモードにならんかな(*_*;
でも、そういうときこそ「おもしれえじゃねえか!」って気合いで越えて参った。
今回も殆ど眠れずウンウン唸っていたのですが、本番!でスイッチが変わった(笑)

ジョイさんは気使いの名人。その場の空気を一瞬にして明るく楽しい雰囲気に変えちゃう。アドリブも当意即妙で、流石プロ!と思わせるオーラの持ち主。しかもイケメン高身長と言うハイスペックさ(^O^)/

ジュノンボーイでニンニンジャーな西川俊介君は素直で親和的な雰囲気の持ち主。イケメンというより美少年といったほうがぴったりな、私とは異世界の王子様でした(#^^#)
...
そんな群馬の素敵な若手お二人と、甲陽忍傳吾妻流を代表して諏訪の拙者と甲州の日原兄が、何のご縁のいたずらか先祖鴻業の地、岩櫃でご一緒させていただくことに…人生って本当に何があるか判りませんね~☆

ネタばらしはできませんが、吾妻流忍法5つの関門!ということで結構本格的な?修行と勝負をしていただきました。
たぶん…いや、絶対、相当面白い出来に仕上がっている感触がありました。

不慣れなお仕事に、いやな顔一つせずお付き合いくださった群馬テレビのスタッフのみなさん、送り迎えから何からお世話になった斉藤さんをはじめとした東吾妻町の皆様、仕事を休んで受けをとってくれた日原兄、そして紺碧の大絶景で我々を迎えてくれた岩櫃山!
本当にありがとう!!

http://www.gtv.co.jp/program/variety/joynt/ ジョイント、放映が待ち遠しいぜ~(^_-)-☆

2016年4月12日火曜日

古池の布袋葵の花のごと浮いて根を張る浮御堂哉

子供のころ、祖母が「兄ちゃん、浮御堂っていうお堂があるんだよ」と言って、やおら立ち上がると「ほら、こんな風に、風が吹いたらスーーーっと、湖の上をお堂が滑って行くんだよ」
普段でも身が軽い祖母の身体が、まるで紙で出来た人形が風に吹かれるように一層軽く、畳の上を平行に移動して行きました。



「兄ちゃん、お侍はね、風に乗るみたいにしていたから沢山の敵に囲まれても怖くなかったんだよ。山の中でも谷でも砂の上でも風は吹いているからね。どんな重いお堂だって、水に浮いてれば風でスーッと行っちゃうんだからねぇ・・・」...
そう言って祖母は薙刀や刀を、まるで玩具のように取り扱って見せてくれたものでした。


・・そんな風景が、この風の強い八ヶ岳に住むようになってよく想起されます。
浮御堂という言葉の印象自体は、よほど強かったのですが、それが具体的な武術の身体運用の秘訣だったということが理解できたのは、祖母が亡くなってずーっと経ってからのことでした。
○弁天号から竹生島を望む

八卦掌や太極拳を錬り、奇正相生が体現されてくると、歩みの中に陰陽を相齊させる陰中之陽と陽中之陰の作用が出てきます。
身体を斜めに、まるで梁の様に補いリードするこの感覚が生まれることで、自分の身体使いは(あくまでも当社比ですが:笑)滑らかになり、今のバランスの状態を自覚することがより精密になってきました。


中国の師父に「浮力」の養成だということで頭の上に盃を載せられ、幾つかの型を学んだときのこと。
祖母もまた、頭にものを載せたり、手のひらの上でものを直立させたりすることが巧みだったことが思い出されてきました。
私自身は軽業師・大道芸のようなことは、正直嫌悪感がありましたので、あまり真面目に受け止めなかったものでしたが・・・思えばこれが浮御堂のための訓練だったのだ、と理解が追い付き、点と点が繋がったのは、恥ずかしながらつい最近のことです(◞‸◟)


そんなこんなで、この前琵琶湖に行ったとき、浮御堂の実物を見てやろうじゃないか!と思い調べたところ・・・
なんと!堅田の浮御堂は湖の上に「あたかも」浮いているかのように建てられた、立派な「不動産物件」だったのでした!!
風が吹いたところでしっかりと基礎が地面に作ってあるので、ソヨとも動かない本物の浮御堂を知って「なんだよ婆さん!全然浮いとらんやないかーーーい!!」と突っ込んだのは当門の秘密・・・★です(笑)

鰯の頭も信心と言いますが、イメージを想起させる良いコトバが、人の身体すら変化させることもある、というお話です。

☆後ほど調べたら、琵琶湖だけでなく全国各地に浮御堂は作られているらしいです、ひょっとしたら実際浮いているような作りのものも、過去あったのかもしれません。念のため。

2016年3月31日木曜日

耀光の守り

所要がありまして、北杜市方面へチョイ旅。

柳生新陰流の三好先生からも伺っていて、以前から参拝をしたかった横手と竹生の両駒ケ岳神社へ。

この両社は、われら吾妻伊与久党の守り本尊、摩利支天さんが鎮座まします霊峰、甲斐駒ケ岳の行場を守る知る人ぞ知る霊場です。
どちらも車で20分ほどの近場なので、用を済ませてからでもまだ十分時間があり、さっそく尾白渓谷沿いの竹生口の御宮から伺いました。...

一歩、境内に足を踏み入れれば、身体の芯から喜びに打ちふるえている自分が・・・!
一帯は摩利支天さんの石塔をはじめとする山岳信仰のパンテオン!
私も若き修行のころから20年,躰術一筋でやってきましたが、時節が巡って、またようやく山への道が開けてきたのか、との思いを新たにしました。



レインボウ!耀光の神、摩利支天の守護あらんことを!



続いて横手の駒ケ岳神社へ。
こちらは神主さん常住の御宮さま。
やはり鳥居をくぐった瞬間からわなわなと身体が震えだし、思わず目出たい笑いがこみ上げるのを抑えることが出来ませんでした。

久保商店で真澄の一升瓶を買っていったので、宮司さん宅に伺い、献酒の旨を申し上げましたところ、作業の手をとめ大前までご案内下さり、奉納の儀を取り行ってくださいました。

宮司様は神仏習合のこの御宮を代々守る家のお生まれで、幼少のころから毎年何度も甲斐駒ケ岳に登られ、先達を務められているのだとか。逞しく気骨のある面立ちは、いかにも野の人然とされていて好感が持てます。

宮司さんとは初対面でしたが、駒ケ岳だけになぜかウマがあってしまい(笑)少しお邪魔するだけのはずが、気が付けば結構長居をさせていただいちゃいました。

      尾白川渓谷のつり橋にて


私と私の一族と摩利支天さんの縁をお話すると、元の御宮で祭られていた摩利支天さんの御像をご開陳下さり、それがなんと私の描いた尊形とまったく同じ姿形・・・宮司さんも何故か昨日、何かに引かれるように我が家の前を車で通られていたらしく、不思議に思っていたが、こういうことだったのか~と仰られていました。

と、いうわけで、今年の夏は甲斐駒ケ岳の登拝行に同行させていただけることに!・・・まったく神恩如海、神威如岳!六根を清浄に備えて雲の上の摩利支天さんに会いに行ってまいりたいと思っております!! 

   林床にはカタクリも咲いていましたよ!

2016年3月30日水曜日

出浦対馬守昌相様

ブログの閲覧が急に凄いことになっているので、どうなっとんじゃ?とおもっていたところ、こんなところにリンクされているではありませんか!うむむ・・・

出浦対馬様は我ら吾妻武士のお館様。

真田のお殿様が天下にその名をとどろかせることが出来たのも、出浦様配下の忍び衆をわが手足のように使い、情報の元を握っていたということと関係が深いでしょう。

私の祖先は情報系というよりは、弓馬鉄砲などに長じた野戦部隊のようなものだったそうで、いろいろ生々しい話もあったようです。

とにかく、今回の掲載は「光栄」なことと考えても良いのかもしれません。
でも、リンクを張るときは、一言いってほしかったぜ・・・|д゚)

http://matome.naver.jp/odai/2145423040196848401/2145423336500157803

2016年3月29日火曜日

「吾妻流長刀術」のPV試作しました(∩´∀`)∩

調子に乗ってもう一本、以前撮っておいたケータイ動画を張り合わせて、それっぽく作ってみました。

祖母から教わった長刀の幾つかの基本を、「吾妻流」として、私なりに繋ぎ合わせたものです。本来こういった套路みたいな感じでは学んでおりませんのであしからずご了承ください。

祖母はもっと浮いているような感じでした。浮き御堂というのだそうです。首がすべての動きをけん引している身体使いです。祖母は体重を感じさせない軽さがあったものです。



吾妻流女子部!

吾妻流女子部のPVをば作ってみました~( *´艸`)

楽しそうな雰囲気、出ているかな??


2016年3月20日日曜日

吾妻流躰術、オラホー富士見!で紹介されました(*_*)

こんなん載ってもうて、おっさん顔が火遁の術やわ~(*_*)

ちなみに一点修正を・・・
吾妻流というのは私が吾妻地方に伝わった体術を、自分の武道修行の経験をもとに再編して公開しているもので、継承者という言葉は正しくありません。吾妻伝承体術の継承者、としていただくか、吾妻流体術師範、と言うのが正しいので、そこんとこ( `・∀・´)ノヨロシク!!

http://www.oraho-fujimi.jp/staffblog/260-20160319001.html

2016年3月14日月曜日

浮御堂

今日は八ヶ岳も見えないくらいの一面の銀世界ふたたび。

移ろいゆく季節のなか、たくさんのさようならの後に、新しいこんにちはが始まります。

皆様、素晴らしい時を有難う!どうかお元気で!これからも宜しくお願いいたします。



足跡も 雪に埋もれし 早春譜                まつ凬


こんな雪の降る寒い日に折角出てきてくれた仲間への、感謝の意味を込めて、今日の錬誠館稽古会では、あるとても大切な術理を提示してみました。

すると、今まで真面目に、先入観なく僕の言っていることを理解していくことに努めたら、きっと完全ではないけれど出来るだろう・・・と思っていた予想が見事当たったので、嬉しくなりました。

入門してまだ4年くらいの母子。なんとこの難しい体捌きを結構なところまでトレースするではないですか!僕的には相当凄いことだと思いました。...

・・・やはり楽しく学ぶことにしかるものはない、ということが判ってまいりましたよ(*'▽')





近江八景の一つの「堅田の落雁」で知られる堅田は、若き日の一休宗純が修禅をした祥瑞寺のほか、満月寺浮御堂という、桟橋で琵琶湖から接岸された堂宇があります。

遥か湖東の山々をバックにして、明るい鏡のような湖面に、まるで重さを知らぬかのような風情で浮き立つシルエットはまさに「浮御堂」の名の通り、そよとでも風が吹けば、たちまち湖面を滑り沖まで行ってしまいそうな浮遊感を醸し出しています。

吾妻流独特の技術「浮御堂」もまた、そよと吹けばそよと、時化の時には激しいなりに、軽く添えた腕で相手の勢いに乗り、動きのまにまに技を施すと聞いています。

こういった体重の引き出し方と、同様の形は、ほかの流派でも見たことはあるのですが、実用するには中々に難しい問題が山積するというのもまた事実。

僕も八卦掌を長年練習して奇正を相生させる中で、理の当然として身に付いただけですし、基本的術理は押さえていますが、万能の手として磨いているわけではないので、大きなことは言えないのが歯痒いところ。

ただ、玄人ごのみ?の、なかなか面白い身体使いだと思うのでアップしてみます。同道の諸兄の参考になればうれしいです。

そして「二重崩」による「波多返」。前者は術理。後者は技法名。個人的には太極拳で言うところのレツに、力の方向は似ていると思います。
家に伝わった数少ない技の一つ。それでも師父や村上師匠、順心斎先生に学ばなかったら、ただのモノ真似で終わってしまうところでした。何とか復元して来れたのも師匠方との奇縁のお蔭以外の何でもありません。


2016年3月11日金曜日

吾妻流、子供躰術教室




子供は面白いものです。合理的な動きを選択するのに、何の躊躇もありません。半身といっても絵に描いたような半身でなく、自然に身体の軸を活用しています。       

転んだ相手に攻撃することは、一般の武道ではやりませんが、心構えとして必ず間を切って残心する癖を付けるために私は大事だと思い、大人相手の場合は素早く効果的な攻撃をするように教えています。子供同士ではそう言ったリアクションだけにさせています。子供って言っても相当心得ているものです。


子供たちが、身体をいっぱいに使って、楽しみながら成長してゆく様を見ていると、梁塵秘抄の一節

遊びをせんとや生れけむ

戯れせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば

我が身さえこそ動がるれ



・・・が思い浮かんできます。良いものです。

2016年3月3日木曜日

紅葉のごとく

真田忍軍とも言われる吾妻衆の末裔で、その教えのかすかな残照を伝えていたと思われる僕の祖母が、得意技として、子供のころから投げていた手裏剣術があります。

その要訣の中に(僕が知る限りでは)他ではあまり見かけないものが幾つかあるのですが、その中に(紅葉の捻り)と言って打剣する際に手の内をきつく捻るというのがあります。
でも・・・これを守って打つと、これが全然当たらない。刺さらない。
...
十字と違って、真田の古忍が投げていたのは飽くまで棒手裏剣ですから、少しでも捻りが加わるともう先端にスピンが掛かってしまい、結果手裏剣は腹を打って無残にもボトリと落ちてしまうのです。

逆に、祖母の言った通りにしないで、平に持って直ぐ打ちしたほうが遥かに真っ直ぐ、気持よく刺さるのです・・・ですから最近は諦めもあって「あれは多分手裏剣の繰りの際の動作が様式として残っただけで、打法自体とは関係がない、もしくはむしろマイナス要因なのかもしれない・・・」と思って、他流のような手の内で投げたりしてお茶を濁していたのでした。

・・・が、今日の稽古で、それはやっぱり、自分の未熟さを棚に上げた、浅はかな考えだったということに気が付きました(;´Д`)

圓月の表と呼ばれる投法を訓練していた時、何か纏まった感じがあったので、ふと後ろを見てフォームを確認すると、いっぱいいっぱいに伸ばした腕が、肘の先から逆に捻られ、指先まで反りかえるほどにストレッチが掛かった状態で手裏剣を手挟んでいることに気が付きました。


順逆にキュウキュウに捻られた腕は、まったく遊びがない状態で、腕だけがわがままを言って何かするような弛みはちょっともございません。それ故に身を使って、ブレのない軸移動を心掛け乍らフォームを大切にして投げてみました・・・すると、急に今までにないような深さ、強さ、正確さで手裏剣が刺さりはじめたのです。これは嬉しかった!

すぐに鉄、ステン、串、箸などいろいろ投げて試しましたが、一本の箸などはベニヤの壁に突き刺さってしまいました。

そしてうまく刺さった時の手の内の形は、もう本当に祖母の舞踊のような手の形と瓜二つになっているのです(^O^)/

「ああ、これだったんだ!」という感動も、もう少しで伝統を誤るところだったという自己嫌悪にナカナカ打ち勝てず、一時間以上頭を真っ白にして投げ続けましたが、全然肩が痛くならないのがまた面白い。筋肉を順逆に締めて使うので、局部的な力が加わらなかったのだと思いました。

さらにそれが違うフォームでも使えるのかと思い、早速実験。ギリギリまで絞った腕を更に折りたたむことで、ポテンシャルを保持させたままフォームを小さくし、弧月の形で打ってみたところ、これも同様のクリーンヒット!今日は自分手裏剣史上最高の結果となりました。

そして案の定というか、意外というか、ふたを開けたら、お婆ちゃんがやっていた(紅葉の捻り)そのまんまの何気ない形に落ち着きました。ヤッパリ・・・(;・∀・)

・・・何というか、まだまだ伝統的な教えの本意って、読み解く人を待っている(ビジー)状態でいるのかもしれませんね。そのまま失われたり誤解されてしまった教えも沢山あったことでしょうね・・・猛烈に反省&また一つ祖母に教えられた気がした今日の稽古でした。

(でも相変らず手裏剣の腕はへぼです。あくまでも当社比なのでそこんとこ( `・∀・´)ノヨロシク)

2016年3月1日火曜日

鍵縄はあぶないから振り回してはいけません。

ついさっき道場の修繕をしていたら、富士見町の役場から面白い電話がありました。

 「あの、いま日本テレビのニュースゼロから問い合わせがありまして、イヨクさんに忍者の道具のことで伺いたいということなんですが、お繋ぎしてもよろしいでしょうか??」

 「…まあ、私のご協力できることはあまりないと思いますが」と申し上げて、電話をつないでいただきました。

「実は、今朝、紐の先に尖った熊手のようなものって、なんというのでしょう?ああ、そう鍵縄というんですか?包丁で人を刺してから、それを振りまわして警察官に威嚇発砲され逮捕された学生がニュースになっていまして、その本来の使い方って、実際どういう具合だったのか、もしよろしかったら実演していただければと思うのですが・・・」という内容にびっくりぽんでした。
...
そこで私は
①あれは登城器の中でも(鍵縄)と言って、振り回すのでなく城壁や木、高楼などに上るためのものだということ。
②振り回して攻撃といえば、中国の縄鏢や流星、銚子の石黒流の縄術が本道であること。
③今、鍵縄術を正しく伝承しているところはおそらく皆無に近く、私などは正しく動作をもって師範、説明することはできないので丁重にご辞退申し上げました。その代わりに、おそらくそれについても独自に練習されているであろう初見先生の武神館道場をご紹介させていただきました。制作の方、大変お喜びでした。

・・・こういうお話は、商売っ気があると、出来る出来ないかかわらず、これを好機と飛びつくのでしょうが、私にはそんな度胸はありません。

 以前ロンドンブーツの番組やパチンコの構成などにも出演や協力を依頼されましたが、そちらも同様、丁重にお断りいたしました。出来ないものは出来ません。だってやったことないんだもの。"(-""-)"ですからこれは、あくまでもネタとしてのご報告です。

★でも出来ることは喜んでご協力いたしますよ(*’ω’*)『真田丸』関係のお話し来ないかな~♪とかは120%思っています。(*’▽’)・・・★と、こそっとアピール(笑)

それにしても鍵縄振り回す子供なら、警棒立てておけば巻き付いて使えないでしょうにねえ…毒でも塗ってるわけあんめえし。でも鍵縄で威嚇して、包丁で刺す気満々なら、間合いというものを知らなければ、絶対ビビってしまいますね。こんなこと言って僕なら撃っちゃったかもしれませんね~(+o+)г・・・バーン!

 警察官の皆さんも、春が近くなってくるといろいろ大変ですね。刺された方も、このクソガキも、警察の方も、みんな大事無いようで本当によかったですね。

 

忍縁ふたたび・・・

AKM48(赤目四十八瀧)を後にした我々真田忍軍AGS007(吾妻7騎衆)末裔一行(笑)、次なる忍者伝承を求めて山懐に抱かれた某所へ移動でござる。

ここは伊賀をさらにこえた大和の宇陀郡、ものすッごい山の中。家は山の尾根尾根に張り付くように立っている、まさに隠れ里のようなところ。
実はここに来る前に御土産物屋上田やさんのお爺さんが忍者の末裔で、銅銭を綴った鎖帷子(重そう…)や忍術道具が伝わっているということを伺い、早速行ってみる…となんと、おじさんはご不在(;´Д`)

写真は、柏原城で、籠城に備えて植えられたお茶の樹が野生化したもの。

折角来たのだからと気を持ちなおし、摩利支天様に祈念しつつ、付近の方いろいろに根掘り葉掘り聞き込みをしてみたところ天祐あり!あるおばちゃん曰く、実はある古忍の末裔が山の奥にお住いだということで、そちらの住所を聞いて訪ねてみることに…

と、やって来てみても、山仕事の人たちのほかは出会う人もおらず、行き合うことも難しいような細い山道の連続で、(ホントにここかいな)と正直不安になります。おばさま曰く「あの何とかって橋を渡って、大きな杉の樹かな?松かな??あそこを左に云々、道なりにまっすぐ行って、すぐ,スグって言ってもね、あんた歩いたらエライよ。車でそう、15分…30分かなあ??じゅうしょ?そんなのあんた、おばちゃんにはわかんないよ!」みたいなアバウト且つ頼りになる情報を頂いたので、まあそれしか手掛かりがないわけですな。でも自分の勘と忍縁を信じて突き進む(それもノンアポで)が松凬流で御座候・・・∵(゚ε゚(○=(*゚▽゚*)バシ!

・・・というか道はこの一本しかないから仕方ないし、引きかえすにもUターンしづらそうだし、あのおばちゃんも「まーまー大丈夫!そんな人じゃないから」と、なんとなく請け合ってくれたわけだし(まーまーそんな人って何だろうとか不安に思いましたが)行くしかないっす、ってな感じで奥へ奥へと進んだのでした。


そんな折、突然ぱあっと視界が開け、明るい谷筋の民家が数件ある集落につきました。「ここか!」とは言えども人影もなし。すると、小高い丘の上に集会所のようなところがあり、芝生にテーブルを置きティータイムをされている優雅な三人のおじ様方と目があいました。

「うおっ!第一村民発見!」これを逃す手はないですばい!と、今日はダーツの旅のAD風なテイストで(何しろ忍者ですから)「お取りこみのところすいませ〜ん、このあたりに忍者●●様の末裔の方がお住いって聞いてきたんですが~??」

・・・すると意外な反応が。

おじさん①「●●?あんた●●さんに何の用があるの?」(ちょっと探るように)

松「あ、私じつは長野の諏訪から参りまして、私の家に僅かに伝わった忍者の伝承を調べると、どうしても伊賀と甲賀にその源流があるということが判ってまいりまして・・・」

おじさん②「へえ・・・でも、普通誰かの紹介で会うものでしょ、アポイントなしで会おうなんて無いでしょう。(ジロジロ)」

松「ウッ…(バリバリ正論)そうだと思います。ですが、先ほど思いがけず○○さん(おばちゃんの名前)からこちらのことを伺い、失礼とは存じながらもいてもたってもいられず…(汗)」

おじさん③「・・・わかった。あんた本当に運がいい。ここにいる(おじさん②)が、●●の直系、●●さんだよ。」 

松「ひぇっ‼そ、そうとは知らず、失礼いたしました‼」

なにこの神展開!?と思いつつも、話すよりこっちの方が早い、と二人で道之礼法から躰轉しての刀刃避けや手裏剣の形をお見せしたところ、疑念を解いてくださり「それはそれは遠いところからよくぞおいでくださった・・・」と、親しくお話をしていただき、コーヒーまでご馳走になってしまいました(*'ω'*)b忝し!

 緊張も解けて、二言三言お話をする間に、私の祖母や割田さん、岩櫃の富沢三郎さんや祢津先生が言っていたことと同様のことを、深くご存知であるなど、この方は間違いなくその道の方だと確信するに至りました。忍びの道は忍び、ということでありましょうか★

●●さん(ご迷惑をお掛けしたくないので、写真や実名は控えさせていただきます)方は、せっかくの団らんのひと時を、時間が許す限りお付き合い下さり、いろいろご教示をくださいました。

忍者という言葉は最近の括り方で、もとは地の侍衆で、諜報や特殊任務のプロ集団といった方がよいということや、伊賀でも元々は我が家と同様棒手裏剣が主流で、中には木の棒の先に刃を仕込んだものもあったということなど、とても肯首できる内容で、武器や伝書も先の大戦のどさくさや供出で、多くは失われてしまったということなど、我が家と同様のご苦労を辿られたことも推察できる一面もありました。

そして特に印象深かったのは「忍びとは、自然や環境を有効に味方にして咄嗟の場合でもわが身や大切な存在を守ってゆくという考え方なのだ」ということです。これは、中々普通の人には言えないことです。大変素晴らしい教えを頂いたと感謝しております。一緒にいたおじさんたちも「●●さんとは長い付き合いだけどこんな話はじめて聞いたよ…」と、驚かれていました。

●●さんとは再会を誓って住所を交換していただき、「私はまだ仕事があるけれど、家の方には妻が居るから、行っていろいろ見てくるといい。」と有難くも忝いお言葉。ご厚意に甘えてさらに少し行ったご自宅へ。
奥方様も大変品の良い方で、突然の闖入に最初は驚かれていましたが、先ほどのことをお話すると「まあ、主人とお会いなさったのですね…」と嬉しそうにお迎え入れ下さり、天正伊賀の乱当時の漆黒の大黒柱に触れさせていただいたり(!)、地方に伝わる数々の貴重なお話をしていただき感銘を受けました。そして大河ドラマ真田丸の出浦対馬守の話になると「毎週楽しみに見ています。これからも見る楽しみが増えました。」とのこと。

それにしても、これは偶然といっても少し出来過ぎのような気がいたします。私が忍活を始めてからまだ一年弱ですが、岩櫃から始まって、甲賀、伊賀、そして諏訪と、出会うべき方がたと出会い、急速に何かが繋がってきているのを感じます。なんというか物凄い忍者への『引き』を感じて、少し怖いような気持ちすらします。どれもこれもわが守り本尊、摩利支天様のご加護なのでしょう・・・
伊賀忍者の非常食が郷土の味へ。

ともあれ、胸いっぱいのわくわく感を抱えて、一行は諏訪盆地目指して帰途についたのでした!お会いできた皆さまとの「忍縁」に感謝☆感激でござる(*'ω'*)ノ

AKM48で忍者修行★の巻

2月27日
明日から伊賀名張、赤目48滝にて忍者修行があるというので、見学に伺うことに。
 真田忍軍吾妻衆の末裔を代表する気持ちで表敬訪問してまいります!
吾妻の忍術は伊賀甲賀の秘伝を集大成したといわれる「甲陽」の流れ。伊賀は甲賀と並ぶ、大いなる源流の一つなのだ☆
...
天正伊賀の乱以降、多くの忍者たちは流浪の身となり、その多くは山の民の道をたどり、自分たちの技を活かす主君に使えるために、甲斐、そして真田を目指し落ちていった。
その出発点ともなったのが、最後の決戦の地、隠の柏原城だったのだ。
やばい。楽しみすぎて眠れない・・・

2月28日

行ってまいりました、憧れのAKM48(赤目48滝)!
AKM48(ひつこい!)は、言わずとも知れた(というほど一般には知られていない)伊賀忍者最後の砦であり、また一説によると伊賀忍術発祥の地、淵源の地とも言われる霊地でございます。紺碧流々、水量も豊富な滝が連続する渓谷は、なんと自然のオオサンショウウオがたくさん生息するという野生動物のサンクチュアリでもあります。
忍活真っ最中の私としましては、いつかは必ず・・・と胸に秘めていた念願の地でもありましたが、今回有難くもフェイスブックにて知遇を得た、伊賀忍者研究会の市川伊蔵さんが「名張の赤目にて忍術修行を実施するでござる!」とお声をかけていただき、急きょ参加、図らずもこの地を踏む幸運を得ることができました。


☝伊賀忍者研究会の池田裕先生(右)と、京都に伊賀流忍術道場を構える市川伊蔵殿(中央)
...
そもそもこの隠は伊賀の更に奥で、天正伊賀の乱のときは織田信長の大軍を前に秘術を尽くした攻防戦が繰り広げられたと伝えられる、伊賀忍者終焉の地ともいえる場所。

私の先祖が所属していたAGS007(吾妻7騎衆(^^)/)に伝わった甲陽流は、一名伊賀甲賀秘伝甲陽流とも言われているように、この名張柏原城攻防戦から散って行った伊賀の忍者たちが、山の民のルートを伝って甲斐に入り、当時戦国最強と言われた武田信玄の下、武藤喜兵衛(真田昌幸)、馬場美濃守などを中心に、甲州流、甲賀流とその秘伝を合流させ成立させたハイブリッド流派だったようです。

そして武田家終焉の後は、甲賀流の大本、信濃望月の一党である真田家を頼って合流し、そもそも信濃国人衆で忍びの達人だった出浦対馬守の下、岩櫃の断崖を天然の道場として訓練編成させ、山国真田の守りとなしたと伝わっています。

つまり、ここ伊賀隠の柏原城は、私の家に僅かに伝わってきたものの、源流の一滴が始まったところの一つと言えるのです。換言すると、天正伊賀の乱無くして甲陽流は無く、甲陽流無くして吾妻の真田忍軍は無かった、ひいては猿飛佐助や霧隠才蔵などの所謂「真田十勇士」の物語も生まれなかったのではないかとも思われます。それだけに私にとっては一入、感無量でした。

勝手神社より、柏原城迹を望む。


修行の内容は、最後の伊賀忍者といわれ、ペリーの黒船に偵察に入った伊賀の澤村甚三郎保祐師の系統を深く学ばれた、伊賀忍者研究会会長の池田裕先生を講師として、礼法、歴史、躰術、手裏剣、植物・鉱物学、兵糧丸作りなども加味され、初めての方でも忍者、忍術というものをより深く知ることが出来る体験型ツアーになっておりました。

池田先生の講義は、ユーモアを交えながらも、その土地の人でなければなかなか知り得ないような薬草、毒草、地勢、家紋や神社伝承など、鋭い視点で忍者の実像に迫ってゆく内容で面白く講義を受けることが出kました。

その中の忍者の分類(①前期忍者:ゲリラ・諜報戦のプロ集団・吾妻衆も含む)(②後期忍者:徳川~明治体制下の隠密・スパイ)(③現代忍者:忍者の伝えた知恵を、現代人の、特に子供たちの健全な育成の為に活用する個人ないし集団)という考え方にはたいへん共鳴できるものがありました。
私の存在意義は、①と③の忍者文化の橋渡しの役割を、僅か乍らでもさせていただくことなのかもしれないとも思いました。



参加者は私たち真田忍軍吾妻衆末裔を代表(?)して五十久(イヨク)党より松凬(私)が参加(*'ω'*)。その他、伊賀の市川伊蔵さんをはじめ、日本各地から選りすぐりの現代忍者さんたちが参集されました。みなさん世が世なら敵味方同士だったかもしれないのに(笑)何とも和やかにお付き合いいただき、息子共々感謝申し上げます('ω')ノ・・・★

私たちは初日のみの参加でしたが、一泊二日たっぷりと忍者体験をして、日本のもう一つの表情に触れてみることは、素晴らしい非日常体験になると思いました。興味を持たれた方は是非ご参加されてみては如何でしょうか!?