2016年2月26日金曜日

2・26、八ヶ岳は雪模様。

今日は2・26忌。80年前のこの日、私たちは大きな決断をし、大きなものを失った。

国を、世界を、人類を憂う人々の想いには、敵も味方もない。国粋もコミュニズムもない。
立場が違えば捧げる対象も違う。...

将校たちの純情も、警察官の使命感も、ひとしく尊いということがわからなければ、それはその人が、いまだ分別の世界にいるということなのだ。


そんな分別の心を持ったまま、殺し殺されるのを否定するのは可笑しい。
分別こそが殺し殺されることの根にあるからだ。

しかし、我々人類は実際、このように殺し殺され今までやってきた。
そうしたうえで今の世の中がある。
そして愛し愛されて今まで生命を繋げてきた。
その結果が私たち一人一人なのだ。

今の世の中と80年前が、いかに似ていようが、いかに違おうが、それらを単純に、同列に考えさせたい奴らがいる。 分別の巷に迷い込ませたいのだろうか。 一体何のために?

じっさい私たちは、同じ行いを繰り返す必要は全くないし、右にならえ式に、過去を全く否定する必要も無いのだと考える。
大切なのは、その時代時代の意義というものを、自分の頭で考え、身体で体得し、自分の言葉を発する勇気を持つ、ということだけなのだ。

言うまでもなく、世界は和を為さなくてはならない。しかしその真ん中は真空でなくてはならないだろう。
もしそこに要としての人が収まるのだとしたならば、空性を備えた者しかその場の強度には耐えられない、そしてその道は想像を絶する滅私の道なのだと想像する。そうとならなければ治まるものも治まるはずがない。

発展途上の世界の中では、空性を持つ者たちから、まるで燔祭の羊のように屠られてゆく。もののふは士道に殉じたが、それは士道に於いて空なるが故だった。

 公僕と言われる公安、浅慮と揶揄される青年将校、どちらも空に至る道のりの中で倒れ傷つき、命を捧げ果てたのだと、私は観る。

今に生き、過剰な情報と保護の下暮らしている私たちにおいても、今日の日くらいは滅私奉公、という言葉が自らの魂の底から湧き出てくるような、そんな純情な時代が過去あったのだということを思い出しても罰は当たるまい。

この日は忘れられ、目を背けられ、いまにも風化しようとしている。
彼らは何のため、何を敵として戦ったのだろうか。
現行の教育では、決して語られないその真意・・・
黙して散っていったすべての魂に黙祷を捧げます。

・・・毎年この日は自分の考えを伸べるようにしています。私の家は母方の祖父が皇道派青年将校、父方の祖父がコミュニストでした。
どちらも命がけで大きな人間という群れに、責任を負おうとしたことを知っていますので、いろいろ考えるところがあるのです。ちなみに僕は右翼でも左翼でもありません。みんな仲良くイヨクです(*'ω'*)

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