2016年2月9日火曜日

諏訪の柔

先日、今年2回目の諏訪神傳躰術の稽古をつけていただきました。師匠は数えで80歳になるのですが、某スキー場にて公認の名伯楽としても大層ご活躍のため、冬季の稽古は不定期になることがあるのです。

連続8日間スキーの指導だったという師匠、雪焼けの顔も心もち精悍になられて、白髪が凛々しくあられます。私が80になった時こんな風貌をしていられるなら、それで十分功(いさお)は立ったと思えるような師匠のお姿に感銘を新たにしました。「お休みにならないで大丈夫ですか?」と言ったら、ニコニコしながら4,5回投げられました。高齢者扱いするとこういった反動が返ってくるということを、いい加減覚えなくては・・・(;´∀`)

今日のお稽古は、樋鳴りの確認。左右の袈裟では右袈裟の手の内の工夫が肝要。最近は左右でも鳴るようになってきましたが、手の内の理屈を考え始めると途端に鳴らなくなってしまう。これは理は後からついてくるが、技を支えるのもまた理、という思考と経験則という大きな問題をはらむ良き材料として、格好の稽古といえる。

次に柔術。肘を使った折敷き技、硬軟自在というのはどういうことか、撫崩、日の入り身、実戦の駆け引きについて。私のような格闘の凡才にとっては教わらなくては気が付かないであろう幾つかの要訣を学ぶ。巧みでいて目立たない、そんなひと味の教伝。何度やっても耳をむしられそうになって正直怖かった・・・

師の技は素朴で、教え方は古朴。しかしその一見単純な技は、腹から手足の指の先までつながった繊細な感覚に裏打ちされているのが最近になって判ってきた。人間の業、というのだろうか、一代一代の専門職が重ねて来た執念、そしてそれを護持するものの底の深さというものを感じ、空恐ろしい気持ちになる。

そのあと組太刀。諏訪流5本の技を繰り返す。ダメダメな自分に腹立つことこの上なし。さりとてこの剣流に有縁の者居らず、暗澹たる気持ちの中稽古を続けるのは辛い。
無刀の捌きは気勢についての注意を受ける。威圧しない静かな気勢こそ必要なのだという。それでも一年前とは格段の進歩なのだということ。自分ではさっぱり実感がないのだが、師匠が言うのだから有難く素直にお受けいたそう、と思う。

写真は相弟子のNさんと師匠の組太刀。

古の後は、恒例の楽しい武道酒の会(*´ω`)
今日は思いっきり腕を振るって、たくさん作って沢山飲み食いしました!ルネッサーンス( ^_^)/▼☆▼\(^_^ ) カンパーイ
今年もがんばるぞ!!

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