2016年3月1日火曜日

AKM48で忍者修行★の巻

2月27日
明日から伊賀名張、赤目48滝にて忍者修行があるというので、見学に伺うことに。
 真田忍軍吾妻衆の末裔を代表する気持ちで表敬訪問してまいります!
吾妻の忍術は伊賀甲賀の秘伝を集大成したといわれる「甲陽」の流れ。伊賀は甲賀と並ぶ、大いなる源流の一つなのだ☆
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天正伊賀の乱以降、多くの忍者たちは流浪の身となり、その多くは山の民の道をたどり、自分たちの技を活かす主君に使えるために、甲斐、そして真田を目指し落ちていった。
その出発点ともなったのが、最後の決戦の地、隠の柏原城だったのだ。
やばい。楽しみすぎて眠れない・・・

2月28日

行ってまいりました、憧れのAKM48(赤目48滝)!
AKM48(ひつこい!)は、言わずとも知れた(というほど一般には知られていない)伊賀忍者最後の砦であり、また一説によると伊賀忍術発祥の地、淵源の地とも言われる霊地でございます。紺碧流々、水量も豊富な滝が連続する渓谷は、なんと自然のオオサンショウウオがたくさん生息するという野生動物のサンクチュアリでもあります。
忍活真っ最中の私としましては、いつかは必ず・・・と胸に秘めていた念願の地でもありましたが、今回有難くもフェイスブックにて知遇を得た、伊賀忍者研究会の市川伊蔵さんが「名張の赤目にて忍術修行を実施するでござる!」とお声をかけていただき、急きょ参加、図らずもこの地を踏む幸運を得ることができました。


☝伊賀忍者研究会の池田裕先生(右)と、京都に伊賀流忍術道場を構える市川伊蔵殿(中央)
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そもそもこの隠は伊賀の更に奥で、天正伊賀の乱のときは織田信長の大軍を前に秘術を尽くした攻防戦が繰り広げられたと伝えられる、伊賀忍者終焉の地ともいえる場所。

私の先祖が所属していたAGS007(吾妻7騎衆(^^)/)に伝わった甲陽流は、一名伊賀甲賀秘伝甲陽流とも言われているように、この名張柏原城攻防戦から散って行った伊賀の忍者たちが、山の民のルートを伝って甲斐に入り、当時戦国最強と言われた武田信玄の下、武藤喜兵衛(真田昌幸)、馬場美濃守などを中心に、甲州流、甲賀流とその秘伝を合流させ成立させたハイブリッド流派だったようです。

そして武田家終焉の後は、甲賀流の大本、信濃望月の一党である真田家を頼って合流し、そもそも信濃国人衆で忍びの達人だった出浦対馬守の下、岩櫃の断崖を天然の道場として訓練編成させ、山国真田の守りとなしたと伝わっています。

つまり、ここ伊賀隠の柏原城は、私の家に僅かに伝わってきたものの、源流の一滴が始まったところの一つと言えるのです。換言すると、天正伊賀の乱無くして甲陽流は無く、甲陽流無くして吾妻の真田忍軍は無かった、ひいては猿飛佐助や霧隠才蔵などの所謂「真田十勇士」の物語も生まれなかったのではないかとも思われます。それだけに私にとっては一入、感無量でした。

勝手神社より、柏原城迹を望む。


修行の内容は、最後の伊賀忍者といわれ、ペリーの黒船に偵察に入った伊賀の澤村甚三郎保祐師の系統を深く学ばれた、伊賀忍者研究会会長の池田裕先生を講師として、礼法、歴史、躰術、手裏剣、植物・鉱物学、兵糧丸作りなども加味され、初めての方でも忍者、忍術というものをより深く知ることが出来る体験型ツアーになっておりました。

池田先生の講義は、ユーモアを交えながらも、その土地の人でなければなかなか知り得ないような薬草、毒草、地勢、家紋や神社伝承など、鋭い視点で忍者の実像に迫ってゆく内容で面白く講義を受けることが出kました。

その中の忍者の分類(①前期忍者:ゲリラ・諜報戦のプロ集団・吾妻衆も含む)(②後期忍者:徳川~明治体制下の隠密・スパイ)(③現代忍者:忍者の伝えた知恵を、現代人の、特に子供たちの健全な育成の為に活用する個人ないし集団)という考え方にはたいへん共鳴できるものがありました。
私の存在意義は、①と③の忍者文化の橋渡しの役割を、僅か乍らでもさせていただくことなのかもしれないとも思いました。



参加者は私たち真田忍軍吾妻衆末裔を代表(?)して五十久(イヨク)党より松凬(私)が参加(*'ω'*)。その他、伊賀の市川伊蔵さんをはじめ、日本各地から選りすぐりの現代忍者さんたちが参集されました。みなさん世が世なら敵味方同士だったかもしれないのに(笑)何とも和やかにお付き合いいただき、息子共々感謝申し上げます('ω')ノ・・・★

私たちは初日のみの参加でしたが、一泊二日たっぷりと忍者体験をして、日本のもう一つの表情に触れてみることは、素晴らしい非日常体験になると思いました。興味を持たれた方は是非ご参加されてみては如何でしょうか!?

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