2016年3月11日金曜日

長拳のイミ

内家拳というとステレオ的に沈みを強調される傾向があると思います。

僕は所謂内家拳と内功武術は、括り方が違うと思っていますので、ことさら脱力や沈むことのみを重く見るというよりは、むしろ伸びあがり、浮き上がる瞬間に獲得できる軸の在り方も、同じくらいに大切な要求だと思い稽古をしています。...

これは入門2年目に突入のH兄と、武扇を持ち、あたかも舞踊や京劇のようにも見える(燕子帰巣)という所作を撮った一枚ですが、そこには当門の躰術的な思想が込められており、他所の道場に於いて内家を10年以上学んだというH兄の軸の所在と、私のそれとではコンセプトが異なるということがよくわかる一枚になったので掲載してみました。

別に彼が下手だというのではなく、むしろ四苦八苦しながら身体のコンセプトを変えていこうと努力する彼にエールを送るものなのですが、当門の志向する要求や思想は、長拳のそれにも近似して内家を冠する門派としては独特なものがあるということを図らずも示してくれる格好の一枚になってしまいました。

必要な場合は背中を丸めるだけではなく、反り伸ばし、時にきつく締め、柔かく連動する軸は常に片足のどちらかに下がってゆくように伸展させます。目線も身体の順逆の捻転の先端にあり、それを領導する意識をもって整えてゆきます。

ある長拳を長年やってきた方が稽古をされて数年、「長拳がなぜあのような身体使いをするのかがやっとわかった」と印象深いことを仰っていました。
たしかに。近代になって長拳も、武術としてというよりは表演の演目として捉えられることが多くなってくるに従い、その中にあったはずの姿勢要求や内功が薄まり、本来の姿を想像できなくなっているような気がしてなりません。
姜氏門は内功長拳(秘宗拳)を大事にしてきた経緯があり、形意拳や八卦掌であっても、その基本を外して演練することはありえません。

私は思うのですが、昔日の面影を善く残している流派では、所謂内家、外家という差異を今ほど強調することは無く、おおむね私のやっていることにも肯定的に捉えてくださる場合が多いのではないか、と考えています。
以前、四川省の片田舎の、誰も知らないような民間拳師の中に、私たちと同じ思想を持った方が居て、お互いに当代武術事情に肩身の狭い思いをしていた矢先だったので、「やっぱりそうだよな!お前良いこと言った!吞め~!!」みたいな感じで意気投合した経験があります(笑)
その人は風采の上がらないどこにでもいそうなおっさん(笑)だし、やっている武術も長拳だか太極拳だか、空手だかなんだか・・・といったような地方拳術なのですが、キッと目をくれると空気が変わり、七十何歳でも跳躍翻旋思いのまま、そして柔かく懐の深い手ごわい技を持っていました。
こういうことって実はけっこうあるのですね。真実を見る目を曇らせないようにしていかなくてはと考えさせられた一コマでした。

文章やメディアを通して観念化すると、太極拳は太極拳、長拳は長拳、空手は空手、忍者は忍者・・・(笑)と、それらしいモノが出来上ってきてしまいます。それが大衆にとって受け入れやすいものであった場合は「イワユル」が横行し、本来の何気ない、表現のしようのないものは駆逐される傾向にあります。でも、それって文化的には衰退ともいえなくね?いえなくなくなくね??・・・まあ、多くは語りませんが(´・ω・`)

ですから、今僕が行っているような言語化、再概念化という試みも、大きな危険をはらんでいると言えなくもない。いえなくなくな・・・まあ、だからこそ、極力宣伝なしで、縁を頼りに尋ねてきてくれた方たちだけに、私の信じているものをお土産に持っていっていただこうと思っております。・・・こんな珍獣でも、意外と頑固なところもあるでしょ?意外だった~??( *´艸`)

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