2015年5月7日木曜日

祖母のこと

ところで、最近おばあちゃんのことをたびたび書くけれど、思い出すたびに、また手裏剣などの稽古をすればするほど、ただ者じゃなかったんだなあ、と実感します。

 着付けや和裁も達者、お茶、お花、踊りは師範位を持って新橋の御姐さんたちが習いに来ていたし、お琴三味線ピアノにソシアルダンスは教場を開いて教えていました。乗馬や毛筆は玄人はだし、満州で和歌を詠ませれば新聞に載る、歌を作らせれば八幡町の歌になる、川柳もたしなみ書を善くし、80を過ぎて外国に行けば、必ず立派に着物を着て社交して、おまけに元敵国人とダンスを踊って、その場の空気を察して平和のスピーチまでしまうような、ユーモアや機智のある格好イイばーちゃんでした。
僕はこの人が大好きでした。両親が共働きで、義理の祖父が相当な酒乱だったので、僕をほそっこい腕で一所懸命守ってくれた、厳しくもやさしい、親代わりの人でした。だからこの人が亡くなった時、生まれて初めて腰が抜けて暫く歩けなくなってしまったのを覚えています。


㊧ 大正時代のチャーミングレディ、伊藤(旧姓:伊与久)志よう子。
㊨ 最後の皇道派将校であり、日月流剣術の使い手だった伊藤禎三との結婚写真。当時はそれこそ伊集院少佐と花村紅緒さん位に話題になったとか(*'▽')

 

おばあちゃんの必殺技は数あれど(笑)、その中でも最も得意としていたのが・・・喧嘩(笑)
もとスケ番の走りだった「おしょうちゃん」は、ブーツに袴のはいからさんスタイルで大正の街を肩で風切って歩いてたそうです。傍らには大女のクマソ嬢と啖呵を切らせたらヤクザモたじろぐ井上譲を、助さん格さんみたいに引き連れ、女学校の生徒からはお姉さまと呼ばれていたご様子。
一度は浅草で番を張る女親分のところまで市電に乗って遠征に行き、たっぷり挨拶をした帰りに電気ブランで祝杯を挙げたとか。

早世したお母さんが「八幡小町」と言って、某宮さまが御傍に招いてお茶をなんちゃら・・・という美人だったので、きつい一瞥の中にも品があって、聞けば結構なワルだったんですが、人望や人気は絶大だったようです。
手裏剣、体術、薙刀に剣術なんでもござれで、威勢も良く、その上、小さいころから弟のように?こき使っていた(笑)丁稚の小僧が独立後、八幡町を取り仕切る任侠の大親分にのし上がったこともあり、界隈どこへ行くにも「お嬢さん」「お志ようさん」だったといいます。

でも、太平洋戦争が何もかも変えてしまいました。幼い二人の娘以外、全てが戦火の中灰燼に帰し、全くの無一物で焼け跡に投げ出されてからの数十年、そのころの人は皆そうであったように、塗炭の苦しみを経て必死に生きてきました。
それでも片時も忘れえぬ禎三さんの面影。
戦地へ行ったままの夫が、いつかそのドアを叩いて入ってくるのではないか・・・戦後40年も数えるころ、まだおばあちゃんは諦めきれない様子で窓辺の朝顔を眺めていました。カナカナ蝉のなく夕方のモノトーンの情景は忘れようもありません。
ある日「にいちゃん、おじいちゃんはね、やっぱり死んでいるんだよ。今朝夢に出てきたよ。おじいちゃんは神様になったんだ。もうおばあちゃんは泣かないようにするよ。」そう言って明るく元気になったのも75を超えてからだったような。いろんなことをたくさん抱えて生きてきて、そのままおじいちゃんの待つ高天原へと旅立ったおばあちゃん。

おばあちゃんは、僕に手を取って武芸を教授してくれたことは数えるほどしかありませんでした。思えば大変な時代を夢のように過ごした人だけに、孫だけには荒々しい息吹から遠ざけたいと思っていたのかもしれません。
そうは言っても、おばあちゃんの教養、技、心を形だけでも、かろうじて受け継いでいるものはその血縁を辿ってみても内孫の僕以外、誰一人としていませなんだ。
願わくは、この五体に流れる血と、先祖の加護をいただいて遠い思い出を紡いでいけたら、と念じ、懐かしい思い出と供に思い出し思い出し稽古をしているこの頃なのです。

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