2015年5月7日木曜日

2.26に想う

今日は2.26忌です。

 昭和の聖上にとっても、弑殺された者の遺族にとっても、首の皮が繋がったもの達にとっても、そして私たち青年将校の子孫にとっても、忘れようのない一日。

79年前の雪の降るさなか、払暁を震撼させた一発の銃声。

文士三島由紀夫の自決が「憂国」忌として今でも語り伝えられているけれど、なぜ2.26は「忌」と言われないのか? 私の子供のころからの疑問だった。
この問題を軸に鑑みるほどに、この国體というものを存続させようという、れっきとした意志の存在を垣間見る思いがする。

思えば、昔の国士も、左翼人士も、学生運動の闘士たちも、結局は熱い憂国の思いに駆られ、人民の理想のために死んだ。皆が皆そうだったわけではなかろうが、その中に秘めたるは「国の」というよりは「皆の」為、立ったものは多かったとと思う。

国あっての人か、人あっての国なのか?

戦後、私たちは神話をお伽噺にされ、人あっての国、ということを当然として受け入れている。しかし、戦前は違った。良いか悪いかは別として、国民(くにたみ)は国が由にあった時代だった。

その中でもひときわ生粋の大和魂を発揮する器を持った者たちが、あろうことかその国に矢を引いたのだった…何故?問う人は誰もいない。簡単に「純情、熱血」で済まされてしまっている。
結果は知っての通り。皇道派は原隊復帰した後も、満州や南方に派遣され、統制派の者たちから徹底的にパージされたとかされなかったとか・・・まさに「和」を以てトウトシとなす・・・彼らの掲げた「大いなる和」は時代にそぐわなかったらしい。

昭和の神聖はその時どのような勅を下されたのか?そのお怒りはいったいどこを起点として発露なされたのか? 神聖は神聖に足る無死赤心の誠を、果たして顕したもうたのであろうか・・・?
そして国体と国体の象徴たる天皇、臣と臣人民の信じた「皇道」は同じものであったのだろうか?
もし乖離があったとしたら、刻々と迫りくる日本包囲網のあらしの中、国體運営は暗礁に乗り上げる。その不協和音こそが太平洋戦争につながっていく悲劇の元凶ではなかったか。

悲劇は今も続く
ーこの事件の結果、軍部の影響力は強くなり、5年後の太平洋戦争の開戦へと繋がっていくー
友人から紹介された、あるニュースサイトからの引用だが、執筆者は、軍部がいわゆるクーデターを完璧に阻止できたにも拘らず軍靴の音が云々と、ステレオタイプな話で落ちをつけて平気でいる。
まるで青年将校たちがその軍靴の音を請来してきたかのような印象操作を、唯々諾々と受け入れる現代人のいかに多いことか・・・少し考えれば、事実は全く逆だということがわかるだろう。
結局は御用学者が、政商が、周辺国の思惑が、彼らのあかなこころに虚偽の色を糊塗し、あまつさえそれを利用しようとしている現状は、今も昔も全く変わらない・・・こんなようでは彼らの熱い想いは、いまだ何ら安息も慰労も与えられていないのではないか?

英霊の声をはじめ、その晩年に急激に傾倒し、最後に市ヶ谷駐屯地にて果てることで、三島が殉じたもののふの道は、誰に顧みられることなくとも、幾世にも生き代り死に変わり発露される、やむに已まれぬ大和心への、一命を投じての餞だったのだと思う。

大正のころは良かった・・・懐かしげに語る年寄りを多く知っている。
もう大方は鬼籍に入ったが、皇族でも三笠宮様などはそうお感じではないだろうか。大らかな時代は、たとえ長く続かないにしても、人間のよい資質を育英する。子供たちにはそういった雰囲気を享受させたいものだ。

しかし、そのために忘れてはならない物語はある。2.26しかり、3.11しかり・・・先人たちは黄泉の向こうからこの国と世界を、そして私たちを見つめている。

おほやまと あかなこころの もののふは あまくにかけて はなとちるらむ

写真は 焔峰 林八郎少尉 少尉もまた日月の剣流にあったと言う。
はなのごとちりしもののふに合掌敬礼

(この文章は2015年2月26日に発表しました。)

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