2015年5月8日金曜日

生活者の体術ー陽中之陰としてのありよう

僕は生活者の哲学とか、実学という言葉が好きです。

飯を食い、鼻をほじりて屁をひれば、あとは糞して寝るばかりなり

・・・きったないですが、これが基本で、織田信長でもイエスキリストでもAKBでも、人間である限り基本からは外れて生きることはできない、まあ言うまでもない話ですが...
武術も、なんで体術と言いたいかというと、人様を殴るける、刀で切る、棒で打ちすえる稽古・・・というのは普通のことではない、生きる上で、とみに現在の社会を生きる上では基本的事項ではない、と強く感じているからです。


 生活者のための体術、と大上段に構えることもないですが、あえて自分の伝統の技法を、そう明記してみたい欲求に駆られるのです。


殴られたら身も心も痛いものです。恨みだってするでしょう。
蹴られたら、蹴ったら、武器で打ったら、打たれたら、切ったら、切られたら・・・刃物で切られたり、棒でしばかれたり、フルぼっこにされたりしたことが少~しだけありましたが、これはなんというか体以上に心がシーンとなってしまう。まあ、僕の場合ですが。
武術者同士の尋常な立ち合い、というのなら双方同意の上のことなので良いのです。が、これも非日常、非常態であることを強く意識できないと危ないし、常態に響いてくるものがない。分離してしまうのです。

しかし男の子を見ていると、こういった世界が本当に大好きで、子供たちなんか手に手に棒を持って戦ごっこをおっぱじめるので、これはもう本能に近いものなのでしょう。男の子は安定よりもホビーを求めてしまう。常態よりも非常を、安全よりも危険を・・・だからこそ「ごっこ」と「ごっこではない」を理解して、稽古即実践力という勘違いをしないように弁えてゆくよう指導しなくてはならないでしょうね。

専門家しか語ることのできない哲学というものや、精緻で芸術的な化学・物理学・高等数学などは、ふんふん、なるほどと眺めるだけの最低限の知識量だけでも、もう一般人からは遥か遠いところにあるわけで、こういうものはなんというか美術や骨董に近い価値観や存在感を帯びているのではないでしょうか。
もちろん武術にもそういったことは大いに言えるわけで、非専門家のまなざしを常に持っておくところがないと、専門家は自分の技術を活用してゆく、敷衍させてゆく出口を持たないことになってしまう。そうなると玄人同士のサロンのようになってしまって、結局ああいった技術は「飯を食い・・・寝る」からすると「なくたって差支えない」もの、時に無用の長物になり兼ねない。もちろんこういった存在もものすごく大事です。でも、忘れがちなんですよね、ロマンチストが多いですからね。

やはり一日蔬菜でも良いんで2食は食いたい。体も頭も健全にトリートメントしたい。整った状態で、出来ることをやって生きていきたい。
やれることをしていけば、夢も形になってくるだろうし、整っていれば、何とはなしに楽しい感じが出てくるもの、だと思っています。
こう書いてみれば、日常なんて別段特別でも難しいことでもない。でも結構あっちゃこっちゃ纏まりのない、とりとめのないのが現状です。

だから、整った日常に向かって身体と心を戻していってやる。その手伝いができるのは、やはりこれは「常態・非常態」の双方の味わいを知る専門家の役目なのだと思います。
伝統武術に伝わる「非常の智」は、「日常」を色濃く味わうための「陽中之陰」の自覚こそが大切なのだと思っています。

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