2015年12月12日土曜日

やっぱり春夏冬(あきない)稽古の記

先日の北杜市・吾妻流稽古会は、1人お休みで6名の参加でした。
 
そろそろ寒くなってきたので、打ち込み稽古から始まり、躰轉、棒を使っての入身、入身当、桁取、絹絞、蛤手、曳梃・・・と一通りのメニューを消化。
 
 
 
素晴らしい好奇心と、集中力で稽古に没頭する面々に、教えるほうも思わず熱がこもりますよ!あっという間に2時間が過ぎました。
 
 
 

今日は小手の動きで相手の抵抗を「吸い取る」ような面白い技法を経験してもらいました。すれ違うように掛けられると、力がある人も倒れることがあります。技は完全なものでは無いので、その裏に流れる本意に目が行くような教え方を心掛けています。
 

松凬の棒。入身打ち込み。四つの面が平らにならないといけません。


 
 

平常運転ならず

昨日から今日の昼過ぎまで、ずいぶんゆったりと過ごせました。

要件って重なる時は重なるもので、当然あわただしく大変だと気がつまる。

 反対にゆったりしていると鷹揚な、おおらかな気分になる。

これこそ凡夫の凡夫たるゆえんでして、僕なんかすぐにアップアップしちゃって舵を切り損なっちゃいます。


だから緊張感の中、目一杯に働いている同世代の方々のお姿を見聞きするにつけ、到底自分では不可能な境涯を受け入れ、そこを錬磨の道場と見なして歩まれるありように畏敬を感じます。


不安定の中にバランスを、慌ただしさには落ち着きを、ゆったりしているときこそ日常心ではなく平常心を思う。

そう言う平法の覚悟に到徹した者をこそ非凡と呼び、道を尋ねたいものです。そんな修道の士がおられたら、それこそ天下の魁師として尊び、その見識に耳を傾けたいと思うのです。


午後は、あずさに揺られて東京へ。異常気象でダイヤは乱れ、遅れて到着しましたが、そのぶん変化に富んだ雲と虹と太陽のドラマを見ることができご機嫌でした。



    雲間より 臨む眸や 摩利支天 かぎろひ照らす 甲斐の奥山

それにしても、今日び子供でも空の虹をじっと見たりってしないんですね。八ヶ岳の上空に凄い二重の虹が出ていて、いい年したおっさん(僕)が写真なんかとってる横で、下を向いてスマホやってましたよ。あんなに綺麗で壮大なものなのになあ・・・



   八葉の 蓮の台の 峰々に 架け渡さむと 虹の橋立 

                                                                                                           松凬

2015年12月7日月曜日

意志

やけくそになりそうになったり、捨て鉢になったりして、それを行動に起こそうかというとき、不思議と『止め』がはいることが多い。

それを無視して、あえて覚悟して行う、ということがあるが、そういう時は好ましくない結果になることが多いような・・・。

でも、それでも悔いることまで丸抱えする気持ちが、覚悟というものだから、そうする以上は全部自分の責任において好ましくない結果を受け止めるしかない。


折角・・・と思うことも多いけど、馬鹿だなあ・・・という人も居るけれど、やらなかったら自分が腐る、というときはどんなに止めが入っても無視することにしている。

そうすると当然ドツボにはまり込む。

以前は無意識でスルーしていたが、今は確信犯的にそんな『天の声?』を無視することも・・・ある。こういった心理は我ながら理解に苦しむ。

お利口な人生ではない。できることなら器用に生きてみたいのだけれど・・・

2015年11月25日水曜日

祖母と僕と武道について

今日は結構時間があるので、祖母と僕と吾妻の縁について書こうと思う。

祖母伊藤(旧姓伊与久)志よう子は、群馬の伊与久の谷から中央法律学校(現中央大)進学のために出てきた、吾妻衆伊与久党の末を自任する紋三郎忠照と、八幡小町と謳われた椎橋はなの五女で、はなは志よう子を産んですぐに産後の肥立ちが悪く早逝したため、その母(自分からすると母方の祖母)ちかの養女となり、椎橋姓を名乗ることになった。

椎橋家は石炭販売で財を成した素封家で、八幡町会議員の中蔵(志よう子の祖父)初代市市議会員の三喜雄(志よう子の叔父、のちに義兄)と、気骨のある地方代議士を輩出した。

中蔵は葛飾八幡宮の氏子で世話人も務めた敬神家だった。成田街道拡張に伴う都市計画が持ちあがった時、地元の崇敬篤い禁足地・八幡の藪しらずに斧鉞が入るというのを聞き、賛成派議員の家に抜身の刀を持って乗り込み、広間に入るや否やそれを突き立て「藪しらずを切るか儂を切るか」と迫り、開発を沙汰やみにさせたという豪傑だったそうだ。


                      (明治期の八幡の藪しらず)

三喜雄もまた文武を善くし、剣術や剣舞にも造詣が深かった。広い敷地には洋館を建て、自らもチェロを弾き、志よう子にバイオリンやオルガンを弾かせ、今でいうファミリーコンサートを開くようなモダンな一面も持ち合わせていた。

志よう子は、そのような恵まれた環境で、歌舞音曲、詩歌管弦、書道、茶道、華道、香道、礼法、着付け、英語にも堪能だったようだ。武道は弓、馬、剣、薙刀、手裏剣、躰術、古式泳法などを、生来のセンスでスイスイと習得していったという。

(加筆:大多喜藩の上級藩士だった方からも手裏剣と薙刀、剣を学んでいたようです。この方からは主に小柄の投げ方や、殿中における奥方の決戦心得、襷捌きや鉢巻きに手裏剣を差して相手を撃ちとることなどが伝えられたようです。)

特に武術には天性があったらしく、薙刀や泳法では大会で好成績を残したし、手裏剣は大人も舌を巻くほどの上手だった。後に夫になる熊本出身の陸軍将校、日月流伝承者の伊藤禎三とは出会ったときから何度も試合をし、武技において敵わないと思ったことが交際の引き金になったとか。
こんな華々しいエピソードに満ちた祖母の生活も、先の太平洋戦争で最愛の背の君が戦死すると状況は一変する。

   (前列左端、伊与久紋三郎、右端、椎橋ちか、後列左から3人目、伊与久志よう子)

一面の焼け野原の中、それまで好意的だった人たちから冷遇され、伝来の遺物や武具もわずかな米と引き換えに四散し、人生の辛酸を味わい尽くした。そのような慣れない貧窮の生活を扶けたものは、若き日に身に着けた芸の数々だったと聞いている。昼間は料亭の仲居をしつつ晩は芸者たちの着付け、三味線の師匠も引き受け、時間を縫ってダンスホールの講師として活躍したりしたそうだ。幼い母たち姉妹は夜も遅くなって帰る祖母を、眠い目をこすりながら待っていた記憶があると言っていた。


共働きだった両親の下、僕が鍵っ子にならなかったのは、この祖母とその姉夫婦(伊与久を継ぎ、母が養女に入った)が一緒にいてくれたお蔭だった。物事には両面があるもので、寂しくなかった代わりに、僕に別の試練をもたらした。

伊与久を継いだ義理の祖父は過酷な戦争経験から酒に溺れ、アルコール中毒になり、家庭はこの祖父の狂乱と暴力に堪えなければならなかった。この祖父も関東軍でも有数の銃剣の使い手で、若い日はボクシングでもちょっと名の知れた人だったので、ひとたび出刃包丁なんか持って暴れた日には、機動隊出身の警官がジュラルミンの盾を持って二,三人がかりでないと取り押さえられないくらい大変だった。

 唯一これを制止できるのが祖父の溺愛する僕だったので、自然僕は幼くして防波堤のような立場を自覚せざるを得なかった。

起床ラッパの歌とともに起床し、完封摩擦をして、夕は夕で、晩酌につき合いながら少年兵の歌に涙し、関東健男児の歌を聞きながら眠りにつくと、祖父は機嫌が良かった。
そんな僕を憐れんで、影に日に守ってくれたのも、また祖母の志よう子だった。

祖母は僕に遊びの一環として、変わった礼法や体術、摩利支天の法や三密加持、手裏剣、剣と棒の数手を教えてくれた。しかし、ここで白状するが、当時の僕は日本の武術や文化に対して、言いようもない嫌悪感を抱いていた。先の大戦の敗戦による我が家の荒廃の原因というのが、恐らく軍部の武断政治にあるというのを、幼稚な頭脳乍らに感じていたのだと思う。その代わり、そのころの僕にとっては父のやっていた空手や、テレビで大流行していたカンフー、とくにジャッキーチェンの大陸的な動きに興趣をかき立てられていたのだった。やるなら絶対コレだな!と老師様との出会いを念じながら・・・選ぶものが結局は武道、というところが面白いのだけれど。それを感じてか、祖母も必要以上に僕にそれを強いることもなかった。

そう言うわけで、僕は祖母が手裏剣などを嗜んでいるということは、いかに親しい間柄でも秘密にしていた。実際のところ古臭い、○○流などと整備されていない、何とも言いようのないものの断片を「武道」だといったところで、それも手裏剣なんて・・・言えば絶対仲間外れにされる。屈託のない育ち方をしていたわけではないので、友人たちも特に聞いてくることもなかったのを良いことに、自分は日本武道なんて黴臭くて大嫌いだ、とのたまって憚ることがなかった。今思い返すと仕方ないとはいえ祖母や先祖には悪いことをしていたのかもしれない。

高校生になって中国武術を学び始めた時、色々な武術仲間ができた。その中の一人がS井君で、彼のひいおじいちゃんがやはり幕府に仕えた忍者だったという(公儀隠密か?)。 
そのころ僕は先祖が吾妻の地侍ということと祖母の手裏剣が結びつかなかったので、まったくもってNINJYAの彼を笑いものにしていた覚えがある。まあ、お互いに悪友だったわけで、最初にナイフで切り付けられたのも彼からだったのだから、別に済まないとは思っていないのだが、彼の忍者戦法も結構実戦には役に立っていたようだ。機会があればまた会って話をしてみたいものだ。

しかし高校在学時から、何かにとりつかれた様に各地の山岳霊場を回るようになり、有名無名の道者と誼を得、教えを受けたり、九度山、高野、熊野、秩父、東北などを跋渉することが心の支えになっていた二〇代は、今に至る準備期間だったのかもしれない。
今取り組んでいる忍者の歴史を俯瞰するうえで、熊野修験ー甲賀ー烏という先を繋いでゆく発想の元となったのが、この頃の山岳修行の日々だったというのはなんだか不思議だ。

あのころの訳もわからない衝動がなかったら、日本の歴史の多重性や、民衆の記憶の重要性などには目が向かなかったのではないか。そしてわが伊与久一党の歴史というものも、顧みられることもなかったのではなかったか。


                 (伊与久の郷にある本宗家の奥津城)

祖母という存在は、僕の人生最初の師匠とも言えるし、母親のような、誰よりも親しい人とも言えた。
上海留学から帰って、東京でアパート暮らしをしていたころ、どうしても嫌だった携帯電話を、当時付き合っていた彼女に言われ、素直に購入、加入した。

そして初めての着信は「祖母が危篤。すぐ帰ってきなさい」との母の悲痛な声。桜の花びらが春の嵐に舞い散る中、祖母は先祖たちの住む山々へと帰っていった。
祖母の訃報を聞いた時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。葬儀の準備に慌てふためく家族の声を聞きながら、歩くこともできずに放心していたことが忘れられない。

2015年11月19日木曜日

易不易

僕が教えている会の「特徴」がここに来て、よく見えるようになった。

それは「ブランド」で入会する人が、限りなく皆無に近い・・・!ということ。

10年20年と継続する人の中で、僕が誰々先生の弟子だ、とか、誰々の伝承を云々・・・みたいなことに詳しい人は、たぶんほとんど居られない。これは意外だった。

僕自身は、師傳に拘りを持ってやってきたし、自分の門派は有名ではないけれど歴史と格式のある良いものだという認識があるのだけど、長期で稽古されている方の中には、いまだ「姜氏門」を「しょうしもん」と読んだり、甚だしくは先生の先生って、シュー先生でしたっけ?そういえば女の人だったんでしたっけ?と言ったことすらある・・・(;´Д`)pヲイッ!!

ことあるごとに師父の話や武林の故事を紹介しているにもかかわらず・・・相当天然な人が集いに集っているのだ。

そして人の思いはとかくその通りにはならない、ということを頻繁に経験する。これは少し寂しいような気がしてしまう時もあるが、よく考えれば大変面白いことでもある。


~流なら~流、○○門ならそれで、ブランドで集った場合、そのブランドイメージが一つの指標となる傾向がある。
そこにいる指導者がブランドのイメージを表現しているうちは、生徒さんはついて来やすい。
しかしそのイメージとかけ離れてゆくと、生徒さんは離れる。
なぜなら、それはイメージといったふわふわしたものを媒介としてつながっているから。

でも実はそのイメージと言うのは多くの場合門外漢が、本の知識や伝聞、推測、そして多分のロマンを以てレッテルし、陳列されたもんがよくわからないうちに受け入れられてしまったモノなわけだから、往々にして実際とは違ったりすることがある。

だから世間で困っている先生方は、じつは結構おられるのではないかと推察している。先生のやることに、いちいちものの本ではこうでこうだ、とか茶々を入れられてはたまらないだろうしね。

伝承として伝わってきたものには、意外な切り口が多く、単純に外部からうかがい知れないような事柄も少なくない。
一定以上の修練を経て、はじめて師の示す本当の意味が理解できたりすることも一度や二度では利かない。


そういう意味では、うちの会の人はつき合いやすいのかも知れません。
姜氏門はこうでこうだ、とか、内家拳は云々とか、そもそもはじめっから余計な知識がない人が集まっているのだから。


僕がせっかく理解できた腕の角度は●●拳ではこうだけれど私たちの工夫はこうであるとか、示したところで「なるほど!」とは言うものの、なんだか他人事のよう・・・(; ・`д・´)このオタク的な喜びを共有して~なんて思う時もしばしば。

そもそもこだわりが少ない、というか関心が薄い・・・もうちょっと拘ってほしいと心配してしまう清々しいほどのアバウトさなのです( ;∀;)

うちの会で中々上達してきた方に、もっと拘るように!僕の全部を真似する気持ちが大事でしょう?と言ってみたら、こんな答えが返ってきた。

「お言葉ですが先生、私たちは生きてゆくうえで役に立つことをしたいので先生の教えを受けているのです。これからの人生、素手で勝負なんていうことは中々ないでしょう。私の関心は先生の仰っていた奇正相生にあります。腕の角度よりも今はあの身法を自分のものにしたいのです。」と、良い顔でにっこりと語るのだ。

・・・僕が自分の師父にそんなことを言えるかというと、口が裂けても出ようのない爆弾発言なのだが、困ったことに、僕はこれはこれで堂々とした立派な見解だと思ってしまう。
つまり、今の時代を生活者として生き遂げるための必要な躰術として、これを捉えてくれているということなんだから、十分に伝統を「活かす」心がありますよ!という表明と捉えられなくもないのだから。

むしろ一介の(と言ったら失礼だけれど)主婦が、心身に対してこのように明確な意識をもって対峙するようになった、というところが嬉しく、頼もしくもあるわけです。(もちろん拝師を念頭に置く場合はちゃんとしていただきますよ。でも自分の場合まだ早いと思っています。)

人はそれぞれ、会のありようも、それこそ教場のメンバーによっても色々です。
僕のようにマニアックに突っ込んでいく人も否定はできない。(というか居ると嬉しい)でも多くの生活者は、効率の良い動き方や、壊れにくい心身のありかた、生活のメリハリとしての良き運動習慣をこそ求めている。

そこに図らずもコミットしてしまい、師範を仰せつかった僕としては、彼らに添い乍ら躰術を楽しんで行く道を歩もうと覚悟しているわけです。
どんな形であれ、自分に伝えられ研究してきた技術が、縁のある人たちと共有でき、それが心身を自覚的に統御する方向に向かわせているのだから、まったく無価値の行為だとは考えられないわけです。

武術家として物足りない、せっかく伝統の素晴らしい師傳が云々と忝くも心配してくださる方もおられるかもしれませんが、私の示され、志向する道と言うのは独自のものです。これは私にしかできないものだし、私以外の方からすれば何の価値も見いだせない石ころの様なものなのかもしれません。

でも、それでいいのではないでしょうか。人間って往々にしてそういうものなのだと思います。

2015年11月4日水曜日

第2回、岩櫃城忍びの乱に参陣して参りました!


岩櫃城忍びの乱、楽しんでまいりました!

主催の斉藤様をはじめ、スタッフの皆様、出演者の皆様、本当にお疲れ様でした。
初めてで不慣れであるにもかかわらず、不自由のないように頑張ってくださった皆様に御礼申し上げます。
 
斉藤様、祢津様、剣持様、富沢様、渡様、そして割田様!!皆さん吾妻武士のご子孫にあたる方がたです。 皆様の寛大で、献身的な郷土愛のお蔭で、何百年もの時を超えてわが伊与久党も、岩櫃再入城を果たすことができました!!

岩櫃の謎を追い続ける、吾妻の語り部「あざみの会」の皆様と。
左の方が富沢さん、私のお隣の和服の紳士が根津さん。皆さまには資料を提供いただいたり、貴重なお話をいろいろとご教示頂きました!

そして、今回やっとお会いすることができた、悲運の吾妻忍者棟梁、割田下総の末裔、割田さん。割田さんの家でも、子供のころは手裏剣を御爺様がされていたとのこと!打ち方や構えまで我が家の伝承とほぼ同一でした(*'ω'*)!
こぶし鍛えや、軽身、飛び六方のお話など、まったく・・・ついこの前までできる方が居られたのですね!感動いたしました。
私の拙い体轉や、飛び抜き、猿渡などをご披露したところ、「うちのお爺さんも似たようなことをやっていた」とのこと!!
これからも吾妻衆に伝えられたと思われる「甲陽」の技の失われた片鱗を、寄せ集めてまいりたいと思う所存で御座候!!

この吾妻領の旧家の皆さんは、真田家の忍者、祢津潜龍斎亘月や、吾妻衆富沢氏、割田下総のご縁者など、今に至るまで後裔も数多く、そういった方たちが真田や忍者の研究に本腰を入れてくださるというのは本当に心強いことです。
皆さまのお蔭で、遠祖鴻業の地にて「吾妻衆」と「真田忍軍」についての講演をすることができました!心より感謝を申し上げます。
来年の真田丸ブームに乗って、月刊誌上にて拙稿「幻の真田忍軍」を紹介出来たらなあと思い、担当の方と目下調整中です。

忍びの乱では、本当にいろいろな方との出会いがありました。
東吾妻を代表するお菓子処「藤井屋」の上原さん、上原さんのお宅には貴重な「影流目録」や各種伝書が伝わったいます。
そして上原さんのお友達の、鉄砲鍛冶で一世を風靡した名人国友の末裔、国友さん、そして甲冑大好きお兄さんもご一緒に・・・パチリ!
皆さんとお会いできてとても嬉しかったです!
 また、可愛い忍タマたちもたくさん来てくれました(^^)/〜★

ちなみに最後の一枚は、甲冑集団「式」と、舞妖衆巫雷の皆さんと、ポーズ!!講演と重なって、皆さんのステージがみれなかったのが残念(-_-)
甦れ!真田吾妻忍軍!!

 

2015年10月29日木曜日

吾妻流躰術由来

明日からいよいよ岩櫃入り!10月31日、11月1日は、岩櫃城忍びの乱第2回秋の陣ずら!

ご先祖様の地で、ウン十代のちの子孫が、子供たちと忍者体験!こりゃ、おんもしれえぞ!

さらに、講演『幻の真田忍軍〜真田忍学ことはじめ』の講師も仰せつかってしまいました!お時間ご都合宜しい方は、是非おこしくだされい!


吾妻流躰術由来  Agathuma-ryu-taijyutu

戦国の昔、天下は麻の如く乱れ、上州吾妻の地も又打ち続く戦乱で疲弊窮乏を際む。民は郷士と呼ばれる地侍の下、刀戈を手に自郷を守りたり。

 真田氏岩櫃入城をなし上信に覇を唱えし折、山谷深険なる地故、熟達の忍者を以て自軍を令導せしむる。ここに吾妻の郷士、訓練編成され山国真田の守りとなりたり。世の人「吾妻衆」と呼び其の勇猛果敢神出鬼没は「真田天下一の武士」と称されし基(もとい)を築きたり。

 伊與久(伊与久・五十久・伊能)氏は上州新田義貞が御家人、五十久弾正が末なり。一族郎党代々弓馬の道を以て経世す。英名を慕いて真田旗下に参じ吾妻衆の一翼を担いたり。

伊與久氏末孫・伊与久大吾源誠忠、武号松凬、幼少より文に親しみ武を好み、道を尋ぬるに千里を厭わず。遠祖の鴻業を仰ぎ研鑽し来たる武芸体術に工夫を加え「吾妻流躰術」を興すなり。

自らを鍛えること余念なく、郷土を守りたる先人の志に習い、未来を担う子供達の健全なる成長と自立に捧げる武道体術なり。

                             吾妻流躰術初代 伊与久大吾源誠忠 謹白



こんなん作ってしまいました(^^)/〜★
どうせ遊ぶなら、ここまで真剣にやらないと、面白くないよね。
ちびっこ達、待っててね!!

2015年10月21日水曜日

天晴子供たち(^◇^)b

本日もドトーの5教室なり!

みんな結構慣れてきたけど、はじめて3年未満の方たちが多いので、やっぱり「理合い」からアプローチしてゆかなくてはね。

ということで、説明しながら動く。動きつつみんなの動作を確認する。一つの教室の中で、進度の違うグループを二つ以上教えるのは、本当に疲れる。それでもなんだかんだでそれをこなしてしまう私。教拳歴二十三年のキャリアは無駄ではないのだ(*^^)v

そしてお楽しみの子供道場!
今日は先週入門した女子が妹を連れてきて、子供が5名、大人が3名(∩´∀`)∩
みんなすごく上達してきたゾ!!

 柔術の技も、受け身も、どうも解ってやっているみたいだぞ!これは嬉しい。あっぱれだぜキッズたち(^◇^)b

この中から、将来名人が生まれるかもしれないんだもんね。誠心誠意教えさせていただきますよん!!
         気攻めから巻き投げを決める子供たち。受け身や残心も上手に出来ていた。

道に大小貴賤なし

本日の柔稽古も、いつもどおり激しかった。 
俺の才能がないからなのか、少しだけ良くなったかな、と思うと振出しに戻るようなことが続いたり・・・師匠は「糞握り」を戒めるのだが、打撃に合わせて腕を添えてゆくことは本当の意味で胆力のいることだ。

技は見切りと合わせがなくては成り立たないものばかり。まったく足りないことだらけで、錬り稽古、乱捕りを付き合ってくれる師匠に本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。そんな師ももう79歳、うかうかはしていられない。

月の入身と日の入身というのがあるのだが、日の入身はやる方もやられる方も危険なので感性と度胸がいる。今日から日の入身を学ぶ。また、八方梃の理を伝えられる。これと順心力が「把」の根幹にある内容なのだ。その手を十分に活用して、面白いように正に「手玉に取られて」しまうワシ(◞‸◟)。

 更に新しい指牙という把法を教わる。寡聞にして今まで見たことも聞いたこともない手だが、使い方はシンプル、で効果は絶大。まあ、教わっても功夫がなければできっこない。当然おいらも「できっか!こんなこと!!」とプチ発狂しながら技を技で返され、もんどりうつ。しかし厳しい。投げられすぎて昼を過ぎると頭がぼーっとしてくる。

と・・・突然に「あなたはバーベルもったことある?」と師。それから裏に出てバーベルやらダンベルで身体の芯を作る。やったあとは実に爽快、遊びがなくなった感覚。技の掛かりも良くなる。上海で大竿子を振っていた時のことを言うと「まさにそういうことだよ」と仰る。改めて負荷を垂直にかけることの重要性を実感する。

つくづく感じるのは、素朴な中に、深い精神性と理合いのある良い流儀だということ。何で今までやる人がいなかったのか不思議。門外不出だといっても、師匠も以前は少し教えてみようと思ったこともあるそうだ。でも、少しやると余りもの痛さときつさで皆逃げ出してしまったそうだ。ワカル。
刀術は小太刀を中心に、無刀入身までを何度も。最近足遣いが良くなってきたようで、これは少しだけ褒められる。嬉しいッ(;´Д`)

この柔は小太刀に工夫がある。「どんな獲物をもっても良いとなったら僕は迷わず小刀を選ぶね。」とは師の言。実際木刀を持っての乱捕り稽古では、小太刀を持った師に何度も追い込まれ、間合いを制せられ、刺されたり切られたり・・・こういった特殊技芸というのは昔から専門の職掌があったのだろうなあ。自分の中にそういったものが定着してくれることを祈念する。


終了後の武道酒、シャルドネのはずが何故か違う葡萄みたいな味が・・・?「こっちも判ってきたね~(笑)」と呵々大笑の師。幸せなひと時。

2015年10月17日土曜日

稽古の会誌上対談・・・伝統の生命「型」そこにある真実

11月号の月刊「秘伝」に「稽古の会」誌上対談

伝統の生命『型』そこにある真実

という企画にて、日蓮宗遠壽院荒行堂傳師である戸田日晨上人と、茶道壺月遠州流宗家の中村如栴宗家と私、伊与久の対談が、掲載されております。前中後の3回連載のうちの今回は第一回で、主に中村宗家の武家の礼法がビジュアル的に纏められております。



伝統的に保持されてきた「型」というものの役目や、その文化的な意義を三人三様のあり方から照射してゆく試みです。たかが「型」されど「型」、型は果たして必要なのか!?
けっこう思い切ったことも書いています。ご興味のある方はぜひ手に取ってご一読ください。



また、畏友の安田洋介老師の「太極遊戯」も好評連載中です!今回は特に素晴らしい、何度も膝を打つ内容でした。お勧めです!!

http://webhiden.jp/magazine/2015/10/201511.php

ちなみに、9月号の八卦掌特集の、こんな宣伝記事もありました。知らなかった~(/・ω・)/

http://webhiden.jp/learn/category2/special/12.php

2015年10月15日木曜日

変わる風景、変わる心

道を歩いていると、ガラッと風景が変わる瞬間がある。

今までの冗長な道行が、一気に変化する。


涼風がそよぐ尾根筋に出た時もそうだし、切り通しの向こうは蒼海だった、ということもある。

止まっていたら、こんな風景には出会えない。


もっと鋭敏になると、場所の気配というものも、大変な変化があるということに気が付く。

人里からすこしだけ上がり、なにかと目があったような気がすると、清冽な泉のような気配が、滾々と湧き出している社の杜だったりする。

歩んでいればこそ、味わえる。



味わうということは、向き合うということは、自分を探ること。

自分の風景が変化して、動かない一点が徐々に絞れてくる。

規矩を得るには籠るべからず。さりとて貪るべからず。


☆まあ、少々貪っても良いんだけど、何時までも貪り続けるってのも、なかなか出来そうで出来るものでもないからね~(*´ω`)

2015年10月12日月曜日

☆吾妻流躰術大人クラス☆

今日は、太極拳はフルメンバーでないとしても16名も参加者がいました(^^)/本来なら嬉しいはずなのですが、突如始まった花粉症??で,鼻はズルズル、クシャミしっぱなしの稽古会でした。お騒がせしました_(._.)_

でも、なんでしょう。熱っぽかったのが良かったのか、自分の動きの集中度はいつもの3倍増しでした。まあ、生徒さんは意識の埒外だったような気もするんですが・・・( ;∀;)ゴメンネ・・・


さて、後半はマニアック・ボディ・アーツ☆われらが吾妻流躰術稽古会大人クラス。先日入門してくれたⓈさんも参加して、総勢6名の稽古会になってきました。

 
この前もお話ししましたが、吾妻流は、私の祖母が伝えてきた吾妻伊与久氏所伝の礼法躰術の動作を縦糸として、私の研究してきた各種武術を横糸に、自分の納得のゆく躰術を残して行きたいと考えて、工夫してきたものです。
身体使いには、江戸期の武術よりも古態を残しているところもあると思いますので、新古品ならぬ新古流、身体使いだけ見るならば真古流とも言えるのではないかと、ちょっとだけ自負しています。

刀を二本使った「練り稽古」は、身体の軸や割腰を作るのに格好の方法だと思いますし、折敷きや山成、膝行や躰轉を網羅する「相の手稽古」も体の位置や軸動を相対的に錬るのには良いものだと思っています。

錬り稽古をする

子供たちも一緒に楽しんで行けるのも良いところ。手裏剣やって、西瓜を斬って、山駆けして・・・来年は吾妻流だけの合宿をやってみたいなあ!!

縁と一言でいっても、いろいろありますね。でも、それらすべてが有難い(*'ω'*)

人と人の縁というのは、努力しないと続かない時もある。

そうかと思うと、何ら力を加えなくても空気のように始まり、それこそ空気のように長く続く付き合いになるというのもある。

私と姜氏門、鄒淑嫺師父は、双方が相当に努力してきた。
穏やかな物腰に激しい情熱を隠した、綿裡蔵針そのものの師父だから、単純パッション馬鹿の若造だった僕からは、想像もできないような心の葛藤があったのだと思う。

それは時に、というか、付き合いが深くなるに従っては頻繁に発露されたのだが、その真の意味とかニュアンス、その後ろ側にある師父の人生や時々の精神状態まで見えて、いろいろと腑に落ちたのは、それこそ10年を数えて徐々に、僕もいろいろと経験をして、それなりの苦労もしてみて分かったことが多い。

師父からすれば、なんとも大変なお荷物を背負ってしまった・・・という一面もあったろう。
もちろん僕にしても、師父じゃなかったら、とっくにお付き合いゴメン被る!といって逃げてしまいたいような場面も沢山あった。

師父の中に何を見て、越え難きを越えられたのだろうか、技・・・は勿論なのだけれど、もう師父くらいになると、武術=その人生なので、やはり師父という人の表も裏も知って、それでも離れがたく、好きだといえる魅力が、その存在の裡にあったのだと思う。


それでも20年、よく一途について行けたものだと自分でも感心しているのだ。師父にしたってよくもまあ、全く性格も、言語体系ですら違った見ず知らずの若造に、自分の一番大切にしている宝をあげてしまおうと思われたものだ・・・これを縁と言わずして何を縁といえるのだろう?と、そう思うのだ。


そのような師父との丁々発止の触れ合いは、僕の青春時代すべてにわたって続き、僕が40歳、師父は90歳をかぞえて師爺の銅像引き継ぎという形でようやく安定したものに変化してきた。


そんな折に今の柔術の師、順心斎老先生に出会ったのだけれど、こちらはもう、事前におぜん立てが整っていたかのように、あれよあれよという間にご縁が出来上がってしまっている。これはもう、出会ったときから先生の流儀は継承する人が居られなかったし、僕はその存在を知った時から「この人は自分の師になるひとだ」という予感があった。

時が満ちるまでは2年間掛かったのだが、いろいろと時節が巡り、始まるときは思いもかけずにスーッと教傳モードに入ってしまった。
これもまた不思議な縁といえる。でも、ヒーヒー云いながら築いた鄒師父とのご縁がなければ、順心斎先生とも絶対に師弟関係にはなれなかっただろう。
技術的に見ても、僕の中に姜氏の錬躰が無かったとしたなら、今の諏訪神傳の技は手に余っていただろうし、以前の浅い人間観ではとても太刀打ちできないほど、先生の思想は重厚で説得力がある。

だから、二つの縁は、連環しているともいえる。


そういう目で見てゆくと、祖母に始まり、父、蟷螂拳の根本老師、開極拳の謝老師、和道流の長谷部師範、欄手門の尹老師、六合蟷螂の林老師、形意の趙玉祥老師、八天無双流の南里師範、そして小林流の村上勝美師匠・・・と、この人無くては今の自分になり得なかっただろう、という「有難き」ご縁の連鎖に導かれての今なのだということがよくわかる。

武縁、それも師傳だけでもこんなに沢山の縁の輪に囲まれている私がいる。
武友も含めたら、それはこれでは済まないくらいに、多士済々、いろいろな刺激を多方面から頂き、自分の輪郭が際立っているのである。

ここまでの、縁のあや模様を歩みながら振り返れば、いつでもなりふりとは無縁の自分がいたのに気が付いた。

これからも多分そうであるのだろう。今であっている人、これから出会う人、モノ、コト・・・格好をつける余裕など全くない。それだけ僕は待望して生きているのかもしれない。

いい年こいて・・・(*´ω`)てへぺろ。


☆ちなみに写真は師父86歳、3度目の来日の時の写真。偶然にも今自分が暮らしている地域を旅したときのスナップ・・・これもまた不思議な縁です(*´ω`)
こん時ゃ肉も酒も飲み食いしまくってました(^^)/ぷりぷりでしょ?

2015年10月10日土曜日

万波(よろずなみ)ひねもす揺らす小舟哉

最近内功武術教室と太極拳教室で万波揺舟をしつこくしつこくやっている。

掤と捋は、私の所の理屈では表裏である。どちらも縦の回転に左右の変化を合わせて合成している。擠按も、同様に同一のシリーズで稽古できる概念だとされている。ちなみにこれは横。
開合を含ませて回櫓推船の中で習得する。これは鄒師父が初来日した講習会で、はじめて公開された功法だった。


目線と、ちょっとした首の筋肉の作用が足の裏にまで作用して、大きな波を表現できるようになる様は、ちょっとしたダンスのようで、やっていてとても心地が良い。

これと神亀攪水、仙鶴展翅、青龍出水、老虎洗瞼、飛燕帰巣、天王托塔、十字開合などの所謂「順勢功法」を精錬すると、我が門独特の、素朴だが威力のある拳風が出来てくる。

逆に、これらが十分に表現できていないと言う事は、その練習者のキャリアが長くても、当門の要求を満たしていないということとなり、招式を多分に含む套路の稽古をしても、順勢をマスターしている稽古生と比べると実りは多くなり得ない、という厳しい現実と向き合わなくてはならなくなる。
順勢功法は、腰の強い生地を練るためのプラクティスなのだと思う。


出来ないことすら楽しみながら、一日のうち、たとえ僅かでもいいから順勢を打ち出すことに時間を費やしてほしいのだ。

工夫を苦労と思わず、水脈をつなげることのできた者だけが、先師の顕した技の真味を知ることが出来る。このくっきりスッキリ切れがある様子は、僕にとっては「南アルプス天然水」よりも清冽で美味しい「透明な味」なのです(*'▽')_U

詠応と・・・!

今日も八ヶ岳は晴天なり。
秋晴れが続くのが、こんなに気持ちの良いものだったんだ~!って思ったり。

町の教育委員会の方から子供らのいろいろなお話を伺う。
少子化は悪いことばかりじゃないなあ、今の子達はたくさんの眼差しに支えられて大きくなってゆくんだなあと思う。
そして自分も、そのまなざしの一つ。子供たちの善き(今)を願う。

光琳めいた桜の樹皮。高原の冷気が鮮やかに染めた紅葉のさんざめき。

秋冷えに衣替えたり山櫻



ところでところで、富士見でスウィーツって言ったら、やっぱり洋風厨房「のんき」さんの『カフェジェラード』ですよね(*´ω`)b唐突ですが・・・


ここは家族ぐるみでお世話になってる古川さんのお店。
http://www.pension-raccoon.com/・・・/fujimi/nonki/nonki.html
いつもゴンチチが流れるあったかい空間、目の前の眺望は秘かに僕の『里山ベストビュー』の上位にランキングしちょります(^^)/
殆ど毎週お邪魔してまして、今では「マスター、いつもの」と言ったら濃厚な味付けの『オムナポリ』(肉抜き)を出してくれる仲に。

こちらにお寄りの際は寄ってみることお勧めですよ!
ちなみにうちのお客さんは、大体こちらに連れて行って、おなか一杯になってもらっています♪

古川さんもそうだけど、こっちへ来て、独特のライフスタイルで生きている同世代の大人にたくさん出会えてうれしい。

午後は友人の妖精版画家、フェンリル工房の太田さん宅にふらりと立ち寄ってみる。
http://kouboufenrir.web.fc2.com/
これでもかと云うくらい人の好い太田さん、製作を中座して降りてきて下さり、暫く縁側で歓談。

話は最近訪ねた白州の「虎踊り」と、「ムジナ和尚」の伝説について。
私の持ちだした「熊野修験」「甲賀三郎伝説」と錯綜して、まるで万華鏡のように綾なす話に魂を奪われ、気が付けば夕刻。二人とも呵々大笑(^◇^)

何が楽しいって、知の冒険ほどわくわくするものは多くはないですね。
太田さん、こんどはぜひ拙宅にて一献、

「あるく瞑想」を主唱している、大島くんパパもご一緒しましょうね!また生演奏もしてください(^^)/
http://ameblo.jp/mera1978/


詠応とこだまする間の頼もしさ

2015年10月9日金曜日

礼法を以て躰を錬るべし!

最近の月曜夜間教室は、吾妻流躰術の稽古を中心に行っています。

吾妻流というのは、私の祖母が伝えてくれた手裏剣の別伝として教わった、折敷き、轉躰の技、伏身、抜身、道の礼などを根幹として、日月流、一傳流、 小林流、壺月遠州流礼法、姜氏門武術、諏訪伝承古武道を加味して纏めた、私自身のの流儀です。


元々は、ちびっこ達に礼法と躰術や手裏剣など、日本、特に忍者にまつわる身体文化を学ばせようと、工夫をしてきたのですが、出来が良くまとまってきたので大人も一緒に楽しんで行くことにしました。



柔術、棒術、手裏剣などの基本になる技法として、所謂身法、体捌きを錬るための礼法があり、礼を以て身体を作ってゆくというところに面白さを表現したいです。 


投げるのも投げられるのも、理さえ解って来れば楽しいもの。結構気に入って稽古してくれるのが嬉しいです。

いよいよ岩櫃参陣!でござる★

来たる10月31、11月1日は、群馬県東吾妻町の忍者イベント、岩櫃城忍びの乱でござる!

拙者も及ばずながら、吾妻衆伊与久党の末裔として「吾妻忍傳流体術1日道場」の師範および「忍者通史」という講演の講師として,縦横無尽に大活躍する予定でござる!



そう言うわけで、今日はず~っと講義録作成。明日はやはりイベントでご一緒させていただく壺月遠州流の中村師と、講演会の打ち合わせなり!
...
次の「月刊秘伝」では、「稽古の会」対談でも、中村師とはご一緒させていただくでござるよ!乞うご期待!

忙しきこと山の如し・・・でござるけど、子供たちが楽しんで体と心を鍛えて行けたら、こんなに嬉しきことは無かりけり!なので、不肖の身に鞭打ちながらの追い込み作業に御座候!!


こんな来歴にしての、こんな仕事・・・これも一切合切何かのご縁、瓢箪から出るのは夢か希望か、マボロシか・・・?

参陣まであとひと月を切り、ラストスパートで突っ走るでござる!!

2015年9月30日水曜日

100年畳☜もうほとんどアート!

本日は朝からめずらしい来客が
諏訪にて伝統の畳を作り続ける情熱の人、杉浦直樹氏がたまたま拙宅のならびの家にお仕事でいらしていたらしく、お声をおかけくださる。

なんでも100年前に作られた畳を引き取って廃棄されるとのこと。

一も二もなく、ずうずうしくもお譲り頂く(*´ω`)
杉浦氏も戸山流居合を嗜まれる尚武の人。すぐにご理解いただき二人して手裏剣場に運び、さっそく初打ち!

・・・なんとなんと、100年の風雪?を越えたる畳なれどしっかり締まったその強度!本当にまっすぐ打たないとばっしんばっしん弾かれてしまう!!
隣の現代の畳にはどすどす刺さるのに。昔の仕事の良さがこんなところで知られるなんて言うのは面白い!100年前の職人さんにリスペクツ!!
杉浦さん、本当に有難うございました(^^)/また是非遊びにお寄りくださいね☆

さてさて、今日は2週間ぶりの諏訪柔術稽古会。

 順心老先生の被せ手、蛤手の妙よ!逃げられない、間を切らせない。
当身に長短あり。短は捻り手、長は当て投げ。ここは村上師匠と同見解。興味深し。曰く、打法は打撃に非ず。一重の身になって順心力にて取投げる如く打ち崩すが肝要なりと知るべし。
また、躰と肘を以て肘を操る小動作が、実は随所に隠されていることに説明を受け、突然技がかかりはじめる。
本来は自分で気が付かなくてはならないのに・・・自らの凡才を悲しむこと再三。

刀法は小太刀にて大太刀の間を制する見切りと擦りあげの技。
早く動けば斬られ、遅ければ斬られ、近ければ打たれ、遠ければ相手の剣は離れてしまう。剣道7段の人でも、なかなかできる人はいないと師の言。
 古流にはめずらしい半身をとらない小太刀の形。

また、神道流や一刀流に伝わる同様の形との比較も研究。足遣いは同様だが、諏訪の刀法は歩み足を多用する。それが淀みのない変化に通じるところは八卦掌にも言えること。

中国武術は、どうしても技術が漢字に沿うてしまいがちだが、日本のものの分類法は一味違って、感覚的な流れを重視するのは、大和言葉で伝承がなされてきたからなのだろうか…って言っても、上海の師父も超感覚派なんだけど☆たぶん老一代の武芸者って、理屈後付けなんでしょうね。

だから言ってるこことやってることが時に??ってなったりもするんだけど、そこを整理、再編して次代に繋げるのが己の役目だと思って、長ーい眼差しで技とお付き合いする日々なり。

武道酒は地元長野のオラホビール、ゴールデンエールとペールエール、さらにサンジョペーゼを醸したるリオハのボトル。スッキリ辛口美味(^^)/

2015年9月25日金曜日

リスペクト☆彡95歳!まだまだ現役!!

市川市長を5期、全国市長会会長などを歴任された市川の親父さん、高橋国雄先生の95歳の誕生会にて、延年長寿、無病息災を祈って演武をさせていただきました。

高橋先生は、僕が赤んぼのころからずーっと影に日に見守ってくれた恩師でありおじいちゃんのような人。

峨眉山や上海、インドネシアに行ったときなどは、この方の存在の見えない力にどれだけ助けられたことか・・・

上海の師父が日本で病気になった時も、八方手を尽くして治療の手はずを整えて下さった高橋先生!師父もいつも先生のことを訪ねられます。
...
『高橋学校』の教え子の中で、僕が一番の末っ子ではありますが、やっと少し恩返しができたのかも。演武は大変喜んでいただけました(^^)/

高橋先生、また来年も再来年も、ずっとお元気で、パーティーやりましょうね!


ちなみに合気道開祖・植芝盛平先生の直参で、合気道師範の宝理先生にも再会できました!

先生からは若松町時代の893さんとのやり取りとか、いろいろ面白いお話も聞けました(^^)/

先生もお元気95歳組!戦中派スゲーっす(‘◇’)ゞ敬礼!!

酒とブレーキ

ここ数年、お酒をやめていた。

 以前の僕を知っている人からすると、もはや信じられないという人も多かろう。
若いころは何だかもう訳が分からないくらい飲んでいた。
一時は、50度くらいの強い酒を、それこそゴクゴクとあおっていたものです。...
点滴で直接体に入れた方が効率いいんじゃない?と言われるくらい、アルコールべったりだった20、30代。よく金が持ったもんだと今では懐かしい。


でも、思えば別に、酒が好き!というわけでもなかったのだ。
酒の美味しさという意味でいえば、むしろ今の方がおいしいと感じているような。

 ただ単に酔っぱらっていたかった。あの酩酊した雰囲気が好きだったのだ。
境界がとろりと溶けて、言いたいことを大声でいい合って、時には情念のままぶつかり合える、ああいう嘘の付きようのない、思いがけないひと時を求めていたんだろう。

でもなぜ、そんなにひたぶるに非日常を求めていたんだろうか?

それは、根底に「生きることの軽薄さ」とか「ずる賢さ」を感じていたからなのではないか。
そんな弱い自分とか、世界を愛せなくって、計算高く立ち回ったり、健康のため丁寧に生きてみたり、ということは負けなんだ!とか思っていたのではなかったろうか?

それが故に、唯々酒の力を借りて、大騒ぎをしつつバランスをとっていた、というところか。
疾走感を求めて、それでもそんなに簡単に強くなれるわけもなく、だから身体は余念なく鍛えていたなあ。

でも養生という考えがなかったので、というか、そんなこと考える自分が許せなかったので、内臓は結構ダメージを受けていたのだろう。ともかくあのままではダメなのは自分でもわかっていた。

中国で修行中、身体の不調は最大になり、夜中に7度も8度も小便に行くようになった。師父と列車で2日もかけて四川の奥地までまで連れて行かれ、連日献身的に漢方薬と気功で治療を受けた・・・師父は親もしてくれないようなことをしてくれた(;´Д`)本当にありがとう!!

その後もだらだらと酒に頼っていたが、40を数える手前、酒が過ぎて不覚を取った。
そのころ自分は、やけっぱちになることに慣れてしまっていて、もうそんなに若くはないのだし、勝ち負けよりも、そこで暴れることに意義がある位に思っていた。
なんか、無用の用というか、ピエロになって見せるというのか。

まあ、丁寧に生きていなかったな。荒く、雑に生き捨てていた。今思えば師傳には申し訳ないことだったなあ。それもあっての完敗。というか酔っぱらっての喧嘩なんて、最低でしょ。自己嫌悪・・・

それからしばらくして、内功を積むのに迷いが生じていたころ、突然不眠の症状が出てきた。
眠れないんだけど身体にはパワーが満ちていて、背中を気感が迷走する・・・この感覚には正直閉口した.狂ってしまうんじゃないかというくらい悩ましいものだった。

ある日、たまらず師父に連絡をした。師父からは「完全菜食および断酒」と食養のアドバイスを受けた。疑いつつも実践すると、ひと月以上も眠れなかったのがウソのようにぐっすりと眠れたのにも驚愕した。いやはや、こういう現象も知悉しておられたか、奥が深いなあ、と感動しましたよ。

あれ以来、すこしだけ謙虚になった僕は、あんなに嫌だった生活者の道を模索するようになった。少しだけ丁寧に生きてみようと思えるようになってきた。
それで、丁寧に生きるというのは、なかなか大変だってことが判ってきた。

でも、何かを我慢して保守的に生きるということは、生き物の動きとしては自然ではない。
自然に生きるためには、いつでも疾走している必要はないが流動感は持っていないと腐ってしまう。腐ると結局自他共々ダメになってしまうものなのだ。ここの見極めは今だ難しいけどね。

流されて生きることも大事。自分の大事に思うものを突き詰めてゆくことも大事。
逃げることも大事。そして酩酊することも大事なんだよ、時には。
さいきんは心が動いた、と思える時にだけ・・・月に数回は飲んでも良いよ、と自分に許しを与えることにしている。覚悟がない時、なんとなくは絶対に飲まない。自分はブレーキを得た、っていうことなんですね、40いくつになって、やっと・・・(/ω\;)

いやはや、一周回ってこうなった、というお話でした。



写真は松本のクラフトビールフェスタ!…があるとは知らずに松本城へ車で行ったときの沈痛な面持ち。後は楽しそうに酔っぱらっている皆さん。やっぱり、お酒は好きです(*´ω`)

玄人さんとこんにちは

今日、柔術の師の庵に行く途上、印象に残ることがあった。

毎回剣道着を着て、刀を袋に入れて歩いてゆく。
最近は気候がいいのか、別荘族の方ともよく行きあう。
そういう方はおおむね二人連れで、犬を連れてのお散歩なのだけれど、僕のような所謂(武者修行スタイル)を見ると、覆わず立ち止まってしまう。
...
別にこの刀を抜くわけでもないのに、僕もごく自然に(?)挨拶してすれちがうだけなのに・・・みなさん実に崩れて、明け渡してしまうのだ。第一印象って、隠せない反応を引き起こすものだ。

そんな中、今日すれ違った人は、一味もふた味も違った。
スタンダードプードルを連れた、60がらみのおじ様は、僕の様子を確認した途端、奥様(?)をごく自然に後ろに控えさせ、会釈をしつつ間を保つように残心。
そのまますれ違った。

無駄のないその立ち居振る舞いと、着ているものから、大体どういった筋の方なのかは予想がついたが、流石!!

稽古前に実に心地よい緊張感を思い出させていただけた。

 一期一会・・・感謝(^◇^)

2015年9月24日木曜日

初夏の点描

刻一刻、目前のモノゴトは過ぎ去っている。
それは前を向いて歩んでいるから。

では、まなざしは前をむいたまま後に退いたとして、または左右に回転したときに、自分にとっての前ってどこになるんでしょう・・・?

先刻は 一歩一歩と 背にきえて 
...
別に、禅の考案でも、なにか秘跡的な何かということではなく、当たり前で、心を静めればわかることが多い。


師の庵に向かう山道で、懐かしい顔に出会いました。

笹船に ダイミョウセセリ 帆かけたり

トラツグミの雛が、側溝に落ちていました。助けようとしたが「稽古が終わってから、もう一度会えたなら、家へ迎えよう」とおもっていたら、数時間後、もういなかった…さすがに写真は取れなかった…

 

2015年9月3日木曜日

季節はもう秋なのです

みぞはぎって、いくらでも咲く。

 畑の畔、荒れた野原、地味の良いところには、それこそわんさと。
 所謂雑草なのだが、その雑草の佇まいが良い。

ねじり花と一緒に、友人の送ってくれた建水に投げ込んでみる。
みぞはぎの良いところは、活けて何日かすると、茎が自然に天に向かって曲がって、全体が自然の野原のようになるところ。



買ってきた花には、到底出せない力強さのなかに、秋風に揺れる儚さを感じてしまうのは、なんだかんだ言っても、日本人だからなのだろう。

小さな小さな紫色の花弁が、山の冷気を含んだ微風に乗って、昼下がりのくさむらに落ちた。

涼しさの なかに はらりと 秋の色

錦の秋に信州にきて、はや5年。
早いような遅いような。
これからは日差しがやわらかく、朝夕の冷え込みが日に日に深くなってくる。