太平の夢を貪る昭和初期の日本。
日清日露、そして一次大戦と、降って沸いた様な戦勝ムードに酔っていた人々の、春眠を脅かす雷鳴の轟き・・・
2.26事件は直前に起こった海軍主導の義挙である5.15事件に連動する形で、昭和維新を標榜した陸軍青年将校が起こした戦前最大のクーデター事件である。
皇道派と呼ばれた彼ら将校たちの大半は、地方の幼年学校から陸師、そして陸大へと実力で進んだ有志の青年たち。国を思うその純情は、地方の疲弊と中央の腐敗を、一剣の下に断ずる一念の下、一か八かの義兵を起こした。
当時の複雑な国際情勢を、知ってか知らずか、戦後の「知識人」は、この一連の事変を「ファシズムの隆盛、帝国主義の軍靴の音が近づいた」等と、物知り顔に皮相的な解釈を付与したがる。憂国の念に散り逝きし故人の志に、一片の花を手向ける事など思いも依らないようだ。
わが祖父伊藤禎三は、最年少の決起将校として代々木の練兵場で銃殺刑に処された林八郎少尉の片腕として、南方戦線で撃墜されるまで、ひたぶるにその意志を紡ぎ続け、天皇親政の夢実現に生きた「最期の皇道派」将校だった。
また、祖父は陸軍師範学校に伝わったと言われる秘剣「日月流」を伝える最期の武道家でもあった。
日月流は江戸初期、堺の町衆の実力者、片桐音之輔矩方が創始した剣術・棒術・長刀・柔術を包括する武術流派で、幕末まで片桐家の中で密かに伝えられ、明治初頭軍医であった森鴎外の推薦で陸軍の有志に伝承された。
祖父は陸師48期を次席で卒業した後(主席を皇弟の三笠宮崇仁親王へ譲位し、金時計を拝領。現在伊与久家にて保管)陸大を経て参謀本部入りし、戦中は北支、満州、南方と常に最前線を転戦しつつ、真正皇道とは何か、其れによって恒久平和は招来されるのかという問いかけを捨てた事はなかった。
祖父と参謀本部の微妙な関係は、統制派と皇道派、そして満州派閥との因縁にも似た三つ巴の抗争劇の中を浮き沈みしつつ敗戦目前のフィリピン・ダバオの戦線にて突如のピリオドとなる。
以降、真正皇道派の血判を示した有志の将兵たちは地下に潜った。日月流の伝承もこれを以て途絶えたとするのは誠に無念である。
私は幼少から祖母が事ある毎に口にした、軍神「伊藤禎三」のエピソードを聞いて育った。
曰く「普通は絶対に、将校が先陣なんか切らないけど、おじいちゃんは先ず単騎で愛刀「長船」を抜いて、「続けー!」って言って敵陣めがけて突っ込んで行っちゃう。だから部下の将兵は、一兵卒に至るまで必至で付いていって戦功を挙げた」
曰く「ならず者、問題児が出ると、必ず伊藤中尉の部隊に回された。おじいちゃんが一騎打ちに誘うと、どんなに強い兵隊でもあっという間に裏返しにされて乗っかられてしまう。背中をおさえるとピクリとも動けず「参った!」と言って、其れからは嘘のように言う事を聞いたもんだよ。」
曰く「おじいちゃんは今でこそ言えるけど、諜報や特務機関を使って、できるだけ敵味方の犠牲が少なくなるように腐心していた。ロシア語は現地人並みに堪能だったし、いろんな言葉をしゃべれた。白系露人や朝鮮、モンゴルやチベット、そして現地の中国要人とも実に親しく付き合っていたよ。現地に識字率を上げるための学校を幾つも作ったものだよ。だから中国人には「伊藤大人」と言って人気が有った。反面日本の中央からはスパイでは?と疑う人もいたんだよ。」
曰く「満州に赴任してすぐに溥儀皇帝の晩さん会に招待された。皇帝の御前に控えている長柄の槍襖の中を悠々と歩くおじいちゃんに、現地の人からも「凄い胆力だ」と称賛されたよ。」
当時の軍人としては、階級に拘らず腹で行動できる型破りの人だったそうだ。
西郷隆盛の如く、一兵に至るまで自らの親と慕う伊藤中尉。皇族とも独自のルートを持つと噂され、有ろうことか独自の諜報組織には敵国人のエージェントまで要している・・・この巨大化した2.26の亡霊を、当時の参謀本部はどんな眼差しで見ていたのだろうか・・・?
実際母の義父になってくれた人も、「満州でこの人のためなら死んでも良い」と思った尊敬する上官の家族として、母を引き取ってくれたのだ。
小さくて病弱に生まれた私にとってはまるで別世界の様な話ばかり。人の意気と意気がぶつかり合う戦場という特殊な時空間に、若く純情な魂を引っ提げて単騎勇躍した怪傑兒として、そして何時でも「理想」を捨てない、コスモポリタニストとして、夢想中に祖父はしっかりと像を結んだのだった。
そんな祖父の活躍を知る人も年々鬼籍に入っている。祖父を神のように慕い続けた祖母も亡くなってもう大分経っている。
祖母との馴れ初めは、2.26残党を匿っていた大アジア主義者、椎橋巳喜男氏宅にて。寄寓していたやはり国士の伊与久紋三郎の末娘が鼻目秀麗、詩歌管弦、乗馬や武芸にも精通しているのを見て一目ぼれした、というのを、祖母本人が言っていたが、これは双方から話を聞かぬまでは結論出来まい(笑)
そのころ祖母にはやはり陸軍の将校で某という許嫁がいたが、伊藤少尉のひたむきな情愛と、その武功の高さに心動かされたとか。まるで「ハイカラさんが通る」の世界だね。と私が言うと「おじいちゃんとわたしはあれ以上!」と、臆面も無く惚気る八十路の祖母だった。
祖母は生前「あの大きな体で、私をマントに包んで、優しく馬に乗せてくれたっけなあ・・・おじいちゃんとは良く竹刀やら長刀で勝負したっけ。腕に自信のあった私が、何度かかって行ってもかする事も出来ない。おじいちゃんの技は凄かったなあ・・・」と、うっとりした眼差しで語り、そのあと竹刀を出してきては祖父の使った日月流の技を再現してくれたものだ。
ときにつばぜり合いからの柔や、指詰め、手裏剣や長刀など、30キロそこそこの小さな体で私を吃驚させる腕を持っていた。今考えるだにもう少し本気で学んでおけば、と悔やまれる。
今度某月刊誌に日月流について寄稿しようと考えている。もしかしたら、どこかでひっそりと伝承されているかもしれない。(実際近年までさる筋で伝承されてきたというのを小耳に挟んだ)そのような、まだ見ぬ祖父の遺伝子達に向かって問いかけたいのだ。無論祖父の事跡にも触れざるを得ないだろう。五族協和という失われた日本人の気概、理想主義と嗤わば嗤え。
写真は堺市に現存する日月流開祖 片桐音之輔矩方の軸/片桐潜龍堂所蔵
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