昨日のお稽古で、足の裏の感覚が変わった・・・柔が掛けやすく、相手の技が掛りにくくなった・・・いつまでも学ぶことがあるって言うのは良いものだ。
しかし、78歳の老人と、延々2時間も乱捕をしつつ、果てにはぎゅうぎゅうやられてしまうのだから、自分のふがいなさと言うか、師の異常な鍛錬に毒を抜かれっぱなしのこの頃。技や心法が身についているかいないかで、子供扱いにもされてしまうものだと言う現実。立体的な発想と言うものが自分には足りなかったと痛感。
40になるまでは、ひたすら姜容樵先師の内功を追って来た。数年前、所謂「印許」を頂き、躰術の概要を得た。師父曰く「もう技術を違えることはなかろう」と。また「明ケイは繋がった」とも。今後はここを起点に套路の中で刃を研ぎ、対人でその規矩を知るのみとなった。(実はここからが本筋なのではあるが。)
そこを一期として色々と研究、特に浅山一伝流と古伝の首里手に関してはその術理に魅了され、一刀流系刀術、諏訪傳某古流柔術の師につき今に至る。
思えば身体を基準に拘り続けてここまで来たなあ。これ以降は気と心の規矩についても視野が広がっていく予感がする。若い頃には思いもよらなかった変遷。しかし、初心からぶれているかと言えば、大きく見ればそのまんまストレートなところもあって、いや、むしろシンプルになっただけ集約していると言うか・・・内功武術、古伝首里手と古流柔術、礼法躰術までもすべてが自分の身の中で寄り添い、一炉に修錬されてきている感覚がある。いつか将来、伝統を一定以上練り上げたこの心身で、ある独自の躰術の境地を世に問う日もあるかもしれない。だって、こんな美味しいものを独り占めするのは何かイケナイきがしてしまうんだよね~(笑)
しかし、78歳の老人と、延々2時間も乱捕をしつつ、果てにはぎゅうぎゅうやられてしまうのだから、自分のふがいなさと言うか、師の異常な鍛錬に毒を抜かれっぱなしのこの頃。技や心法が身についているかいないかで、子供扱いにもされてしまうものだと言う現実。立体的な発想と言うものが自分には足りなかったと痛感。
40になるまでは、ひたすら姜容樵先師の内功を追って来た。数年前、所謂「印許」を頂き、躰術の概要を得た。師父曰く「もう技術を違えることはなかろう」と。また「明ケイは繋がった」とも。今後はここを起点に套路の中で刃を研ぎ、対人でその規矩を知るのみとなった。(実はここからが本筋なのではあるが。)
そこを一期として色々と研究、特に浅山一伝流と古伝の首里手に関してはその術理に魅了され、一刀流系刀術、諏訪傳某古流柔術の師につき今に至る。
思えば身体を基準に拘り続けてここまで来たなあ。これ以降は気と心の規矩についても視野が広がっていく予感がする。若い頃には思いもよらなかった変遷。しかし、初心からぶれているかと言えば、大きく見ればそのまんまストレートなところもあって、いや、むしろシンプルになっただけ集約していると言うか・・・内功武術、古伝首里手と古流柔術、礼法躰術までもすべてが自分の身の中で寄り添い、一炉に修錬されてきている感覚がある。いつか将来、伝統を一定以上練り上げたこの心身で、ある独自の躰術の境地を世に問う日もあるかもしれない。だって、こんな美味しいものを独り占めするのは何かイケナイきがしてしまうんだよね~(笑)
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