2015年5月8日金曜日

武術は春夏冬東西(あきないもの)に御座候

昨日のお稽古で、足の裏の感覚が変わった・・・柔が掛けやすく、相手の技が掛りにくくなった・・・いつまでも学ぶことがあるって言うのは良いものだ。

しかし、78歳の老人と、延々2時間も乱捕をしつつ、果てにはぎゅうぎゅうやられてしまうのだから、自分のふがいなさと言うか、師の異常な鍛錬に毒を抜かれっぱなしのこの頃。技や心法が身についているかいないかで、子供扱いにもされてしまうものだと言う現実。立体的な発想と言うものが自分には足りなかったと痛感。

40になるまでは、ひたすら姜容樵先師の内功を追って来た。数年前、所謂「印許」を頂き、躰術の概要を得た。師父曰く「もう技術を違えることはなかろう」と。また「明ケイは繋がった」とも。今後はここを起点に套路の中で刃を研ぎ、対人でその規矩を知るのみとなった。(実はここからが本筋なのではあるが。)
そこを一期として色々と研究、特に浅山一伝流と古伝の首里手に関してはその術理に魅了され、一刀流系刀術、諏訪傳某古流柔術の師につき今に至る。


 思えば身体を基準に拘り続けてここまで来たなあ。これ以降は気と心の規矩についても視野が広がっていく予感がする。若い頃には思いもよらなかった変遷。しかし、初心からぶれているかと言えば、大きく見ればそのまんまストレートなところもあって、いや、むしろシンプルになっただけ集約していると言うか・・・内功武術、古伝首里手と古流柔術、礼法躰術までもすべてが自分の身の中で寄り添い、一炉に修錬されてきている感覚がある。いつか将来、伝統を一定以上練り上げたこの心身で、ある独自の躰術の境地を世に問う日もあるかもしれない。だって、こんな美味しいものを独り占めするのは何かイケナイきがしてしまうんだよね~(笑)


元気に稽古を続けて行けること自体、本当に幸せなのに、古き良き無形の宝を伝える先達たちに貴重な教えを頂けるこの忝さ、感謝、感謝である。
そして何より、自分はまだまだ鼻たれ小僧、このことが実感としてある。限りなき可能性を秘めた、人間賛歌は勇気の賛歌ッ!・・・楽しいのう!(^^)!



写真は日月流開祖片桐音之輔宗矩。我が祖父に伝わっていた総合武術。
師は武医茶禅に通暁し、この一流を開いた。師の如き通人となりたし。

0 件のコメント:

コメントを投稿